魔宮夫人の恐怖! 1章 腹痛と迷路

 確か音はしないはず。
 ふと、そう思った。
 武智探偵事務所の、応接室である。
 ソファに座ってテレビを眺めていた相馬晴彦は、壁掛け時計に目を向けて首をひねった。
 テレビでは、ここ最近多発しているという少年連続誘拐事件について報道されていて、それが気になって仕方がなかったのたが、瞬間的に、晴彦は音に気を取られた。
 壁に、大きめの時計が掛けられている。電子表示ではなく、長針と短針で時間を示すものだ。秒針もある。でも――。
 その秒針は、音を立てないはずだ。それが、今は音を立てている。かち、かちと時を刻む音を。
 妙に思って振り向くと――。
 晴彦の隣で、ソファに座っている少女が目に入った。
 青い髪をおさげにまとめた体の小さな少女だ。少女は、机の上に何やら物騒な形の機械を置いて、それをドライバーやらレンチやらで夢中になって弄っている。大きな丸眼鏡をかけているが、その奥に輝く赤い瞳もまた丸い。その丸い瞳が、今は夢中になって目の前の機械を見つめている。
 先ほどから晴彦が気にしている音は、どうやらこの機械から響いているらしい。
「何やってんだよ」
 晴彦が問いかけると、機械に夢中になっていたおさげの眼鏡っ子は、顔を晴彦の方へ向けて、
「発明なのです」
 と言った。その丸い顔に広がった笑みを見ると、まるで幼い子供が玩具で楽しんでいるかのような印象を受ける。服装もどことなく幼げだと晴彦は思う。
 首に巻かれたチョーカーはピンク色だ。その華奢な上半身を覆うTシャツもピンク色と白の横縞模様で、胸元にはハートマークのアップリケが付いている。ハートマークは縦半分に割れており、その左が翠、右が赤色だ。ピンク色づくめの上半身に、その緑が映えて見える。
 下半身は白と水色の縦縞模様入りのテニススカートを着けている。そこから伸びる太ももから下も、とても細い。
 一見小学生のように見えるがそうではない。
 少女は青葉総合大学に籍を持つ立派な大学生である。
 それも、システム科学技術学部電子情報システム学科一年という、根っからの理系だ。
 不破詩織。
 それが彼女の名前だった。
 詩織の持つメカニックに関する知識と技術は世界でも指折りのものだ。実際、この武智探偵事務所で解決してきた事件でも、詩織の発明品はよく役に立っている。
「発明って、何の発明だよ」
 一見幼く見える科学万能少女に、晴彦はあらためて尋ねた。晴彦が見る限り、詩織が発明品と称してさっきから弄っているその機械は、どう見ても爆発物にしか見えない。
「これはですね」
 詩織はドライバーを机の上に置き、その爆発物らしい外見の機械を両手で頭上に持ち上げて、高らかに宣言した。

《キューティーモーニング目覚まし時計★一見ボンバーくん》なのです!」

 一見どころか、いくら見ても起爆装置にしか見えなのは気のせいだろう、と晴彦は思った。いや、思うことにした。
「で、その時計は、どこに時間が表示されるんだ」
 見る限り、どこにも数字の類は見えない。
「時計じゃなくて〝ボンバーくん〟なのです」
 詩織は晴彦の言葉をムキになって訂正してから、頭上に持ち上げていたそれを机に置き直した。
「これはですね、時間が表示されることはないのです」
「はあ?- それじゃあ時計として役に立たないじゃないか」
「だから、時計じゃなくてボンバーくんなのです」
 詩織は童顔だ。顔が丸いせいだろうか。華奢な体のせいでもあるかもしれないが、やはり幼く見える。頬を膨らませて怒るその仕草にも、幼さを感じる。
 わかったわかった、と晴彦は、むきになる詩織を宥めた。
「そのボンバーくんは、どうして時間が表示されないんだ。それじゃあ役に立たないじゃないか」
「立派に役に立つのです」
「どうやって。だって時間が表示されなかったら時刻がわからない」
 晴彦が問い詰めると、詩織は人差し指を顎に当てて、そうですねえと考え込むように言った。
「正確に言うと、時間は表示されるのです。電源を入れれば、ですが。この部分に」
 詩織は、機会の一部分を指で指した。確かにそこには、小さな液晶画面のようなものがあった。
「ただし、ここに表示されるのは〝時刻〟ではなくて〝残り時間〟なのです」
「残り時間?-」
「そうなのです。これは単なる時計ではなくて目覚まし時計なのです。だから使い方としては、まず寝る前に、何時間後に起床するのかを設定するのです」
「それで?-」
「あとは寝るだけなのです。表示されるのは、設定された時間の残り時間なのです」
「残り時間がなくなったらどうなるんだ」
「時間がなくなると――」
「なくなると?-」
「使用者がもっとも言われたくない言葉を大きな音で喋り始めるのです」
「とてつもなく嫌だな」
 絶対に使いたくない。
「例えば晴彦くんなら」
 詩織は、その眼鏡の奥の丸い目をさらに丸く開いて、晴彦を凝視した。
「きっと、まずはその頭のことを言うに違いないのです」
「頭?-」
「そうなのです。晴彦くんはなぜだか知らないけど、ある日突然髪を赤く染めたのです。なのに、今は髪が伸びたせいで根元が黒くなりつつあるのです」
「う」
 晴彦は両手で頭をおさえた。それは確かに晴彦が気にしていたことだ。晴彦だって、詩織と同じく、青葉総合大学へ通う大学生だ。日本語日本文学学科に所属していて詩織とは専攻は違うものの、それなりに身なりには気を使いたいと思っている。ほかの大学生と同じように、だ。髪を染めてみたのもそのためだったのだが、晴彦は、武智恭介の一番弟子にして、この探偵事務所の所長代理という立場を預かっているのだ。
 この事務所ではバイトとして働いているが、探偵としての依頼の遂行の他にも、法務面など、こなさなければならない仕事がいくつもある。だから、美容室へ行こうと思ってもなかなかその時間が取れないのだ。だから髪も伸び気味だし、黒に戻りつつある髪も染め直せないでいる。
「それから、その服装のことも言うと思うのです」
「服装?-」

「そうなのです。そのピンク色のポロシャツは髪の色と同じだし、ベルトの色も赤で、やっぱり髪の色と重複しているのです」
「う! う!」
 続けざまに二度、衝撃を受けた。
「それから」
「まだあるのか」
「一応」
「一応ってなんだよ」
「その脚」
「脚がどうしたんだよ」
「その白いチノショートパンツは涼しそうでいいのですが、足まで最近は白いのです。このかんかん照りの真夏に、あまり日に焼けていないので病弱な印象を受けるのです」
「うう!」
 四度目の衝撃を受けた。脚が白いのも、バイトが忙しいせいだ。何しろ屋内でこなす仕事が多いから、自然と日にも当たらなくなる。だから日焼けも引いていく。
「それから――」
「もういい!」
 これ以上言われたら精神が持たない気がして、晴彦は詩織の言葉を遮った。
「半分は詩織の主観が入ってるんじゃないか?-」
 晴彦が尋ねると、詩織は舌の先をちょっと出して、へへへと笑った。
「ちょっとというか、全部なのです」
 少しは隠そうという気にならないものだろうかと晴彦は呆れる。
「で、そのボンバーくんとやらを止めるためにはどうしたらいいんだ」
 見たところ、スイッチのようなものは見当たらない。
「これは、もう壊すしかないのです。金槌で叩いたり床に投げつけたりなんかして」
 それは確かに目が覚めそうだ。悪口を言われた上に機械をひとつ壊すとなると、相当な精神力と労力が必要だろう。それなら目覚ましとしては優秀かもしれない。
「それも、これで完成なのです」
 詩織はそう言いながら、ふたたびドライバーを握ると、ボンバーくんの一箇所にあてがって何回か回した。
 それで音は止まった。晴彦が気になっていた時計の秒針の音だ。
 やっぱりこの、ボンバーくんとやらが音の原因だったのだろう。
「ところで、なんでそんなもの作ってんの」
「そんなものとはなんなのですかッ」
 詩織はおさげの青髪が逆立つほどに勢いでそう叫んだ。ごめんごめん、と晴彦は宥める。まあ、いいのです、と詩織はすぐに静かになった。
「これは、お得意さまへの贈り物なのです」
「お得意さまって」
 晴彦は、今まで受けた仕事の依頼人の顔を思い出してみた。いろんな人がいたが、どれも一回こっきりの依頼ばかりで、お得意さまと呼べるほどたくさんの仕事を依頼してきた人はいない。
「晴彦くん、勘違いしているのではないですか。お得意さまっていうのは、私個人のお得意さまなのです。この事務所は関係ないのです」
「個人のって、詩織は何か商売でもやってるのか」
「もちろんなのです」
 詩織は目を軽く閉じて澄まし顔をつくった。
「私の世界屈指の機械工学の知識で、コンピュータのウイルス対策から、建物の警備まで、なんでも引き受けているのです」
 なんだか詩織が遠い存在になっていくような気がする。年齢は晴彦と変わらないというのに・・・・・・。さらには見た目だってまるで小学生のように幼いというのに・・・・・・。
 隣に座る小柄な科学少女を眺めて、晴彦は少し悔しい気分になった。それでも、機械工学に関する詩織の知識が世界屈指というのは認めざるを得ない。
 詩織が、いつかこの事務所を去ることになるのではないか、とそんな気がしてならない。それを晴彦が心配していると、突然何か警報音のような音が鳴り始めた。火災報知器に似た音だ。
 だが、この事務所に警報装置はついていない。
「あ! 侵入者なのです!」
 詩織が声をあげた。同時に、近くに開いてあった薄型のパソコンを覗き込む。晴彦もその画面に目をやった。
「なんだ、それ」
 思わず声をあげてしまった。パソコンの画面には、まるで指紋を思わせるくらい細かくて複雑な迷路が映し出されていたのだ。
「ふっふっふっふ」
 詩織が不敵に笑った。眼鏡がきらりと光を反射する。
「これぞ私の新しいセキュリティシステムなのです」
 その横顔には、鼠を追い詰めた猫のような残虐な表情が浮かんでいた。
「私のセキュリティは、プログラム面が完璧なのはもちろん、仮にそれを突破しても、この迷路を潜り抜けなければ破ることができないのです」
 なんだか凄いということはわかった。しかし、それよりも気になるのは、詩織の言葉を信じるなら、この迷路が表示されているということは、何者かがそのセキュリティを突破してきたということだ。
 並外れた詩織の構築したセキュリティを突破したということは、相手のハッカーも並々ならない腕の持ち主ということだ。
「いったい誰が」
 晴彦が尋ねると、
「松尾くんなのです」
 と詩織は、あっさりと答えた。
「松尾くんって」
「私がネットの中で知り合った、ハッキング仲間なのです」
「詩織、ハッキングしているのか」
 ハッキングは犯罪だ。腕前は惜しいが、そうと知ったら放ってはおけない。だからそんなことに手を染めているとは信じたくない。
「また何か勘違いしているのですね」
 詩織が言った。涼しい顔で晴彦を見つめている。
「ハッキングと言っても、今はホワイトハッカーと言って、ハッキングの技術を使って、悪意のあるハッカーを撃退する技術者もいるのですよ」
「つまり詩織は」
「そうなのです。松尾くんと私は、あくまでホワイトハッカーとしての仲間なのです。と言っても、ネット越しだけの関係なので、どんな相手かはよく知らないのですが」
 それを聞いて安心した。どうやら、仲間を警察に突き出すような真似はしなくて済みそうだ。ほっと胸を撫で下ろす。
「晴彦くんは心配性なのです。余計な勘違いをしないように説明しておくのです」
 詩織はそう言って、こほんと咳払いをすると、問わず語りに語り始めた。
「現在私のパソコンにハッキングをかけているこの松尾くんという相手は、〝競技〟として私に挑んできているのです」
「競技?-」
「そうなのです。私と松尾くんは、お互いにセキュリティを万全にしておいて、お互いにハッキングし合っているのです。それで、先に相手のセキュリティを突破した方が勝ちなのです」
 まあ将棋みたいなものなのです――と詩織は最後に言った。
 将棋とは全然違う気もするが、とりあえず言いたいことは分かった。つまり、コンピュータにおける攻撃と防御の技術を競っているということなのだろう。

「ややややッ」
 いきなり、詩織が大きな声をあげた。さっきまでの得意そうな表情はすっかり消えて、もはや蒼白になっている。
「どうしたんだよ、詩織」
「迷路が、迷路が」
 うわ言のように詩織が繰り返している。
「迷路がどうした」
 晴彦はパソコンの画面へ目を移した。そして晴彦も動転した。
 パソコンの画面いっぱいに映し出されている迷路。その迷路の中の道が、一本だけ、凄い勢いで赤色に塗りつぶされて行っているからだ。これはつまり、松尾くんとかいう相手が、この複雑に入り組んだ道を、ほとんど迷わず終着点に向けて突き進んでいるということなのだろう。
 詩織は素早くマウスを手にして、塗りつぶされつつある道を拡大した。
 道を塗りつぶす赤色は、間もなく丁字路に差し掛かろうとしているところだった。
「これを右折すれば右手法」
 と詩織は呟いた。眼鏡の奥に光る瞳には真剣さが宿っている。
 ごくりと、詩織は喉を鳴らした。唾を飲んだのだろう。細くて白い首を、喉仏が上下するのが見えた。
「みぎてほう?-」
 聞きなれない言葉に疑問を抱き、その言葉を繰り返してみたが、詩織は晴彦の質問など無視して、画面を睨みつけている。そのただならない集中力に水を差してはまずいと思い、晴彦も黙って画面を見た。
 道を塗りつぶす赤色は――。
 右折した。
「ふう」
 詩織は一気にソファへ背中をくっ付けて、のけぞった。
「右手法だったのです。これならこの迷路は脱出不可能なのです」
 まるで力仕事を終えたあとのように、腕で額を拭う。その表情から察するに、どうやら危機を脱したようだ。
「その、右手法とかいうのは何なんだ」
「そんなことも知らないのですか」
 ソファに背中を預けていた詩織は、飛蝗が跳ねるような動作でぴょこんと跳ね上がり、晴彦の顔を見た。そして、眼鏡の奥に輝く丸い瞳を、ぱちぱちと二度瞬かせる。
 そんなに驚かれるようなことだろうかと思いながらも、晴彦は素直に知らないことを認めた。詩織は、仕方がないのですねえとため息混じりに言ってから、その右手法なるものの説明を始めた。
「右手法というのは、迷路を脱出するための方法のひとつなのです。具体的に説明してみるのです。良いですか?- まずはアルファベットの〝T〟という文字を思い浮かべてほしいのです」
「T?-」
 意図は分からなかったが、晴彦は頭に縦線と横線を思い浮かべた。それを見計らって、詩織は続ける。
「そのTの字を迷路の通路と考えてみるのです。仮に、縦線の下部分を出発点として、横線の左端を終着点としてみるのです」
「ふんふん」
 晴彦は腕組みをしながら視線をあげ、詩織の指示通りに想像を膨らませる。
「では、実際にその迷路に入ってみるのです。出発地点は、縦線の下部分なのです。通路に入ったら、右手を右の壁に当てるのです。そうしたら、その右手は絶対に壁から離してはいけないのです。右手を壁につけたまま、通路を進むのです」
 晴彦は目を閉じて、頭の中の通路を進んだ。右手を壁につけたまま。
「そうすると、Tの文字ですから、そのうち左右の分かれ道にぶつかるのです」
 つまりTの字の横線の真ん中に到達したということだろう。
「さっきも言った通り、終着点は横線の左端なのです。でも、右手を壁から離してはいけないのです。その条件で進むとしたら、どうなると思うのですか」
「どうって」
 右手を壁から離してはいけないのだから、右折するしかない。終着点からは遠ざかるが。
 そう言った。そうなのです、と詩織もそれを認めた。
「では右折してさらに進むのです。そうすると今度は、行き止まりにぶつかるのです」
 横線の、右端に到達したのだろう。
「右手を壁に当てたまま、さらに進むとどうなると思うのですか」
「右手を壁に当てたままだから――二回左折して、今来た通路を逆方向に進むことになるな」
「その通りなのです。ではさらに右手を壁に当てたまま進むと――」
「正面に終着点がある」
「そうなのです。つまり右手法というのは、壁に沿って歩くことで、遠回りになることはあっても必ず終着点に到達が出来る方法なのです。もちろん、この方法は右手ではなくて、左手で壁を触っても成立するのです。ただし――」
 詩織は人差し指を立てた。
「これでは終着点に到達出来ない場合もあるのです」
「どんな場合に」
「それは、終着点が迷路の途中にある場合などなのです」
「迷路の途中?-」
 よく意味がわからなかった。
「どういう意味だい」
「いいですか。今度は凹凸の〝凹〟の字を思い浮かべるのです。そうしたら、〝凹〟の字を四角形で囲むのです」
「ふむふむ」
 先ほどと同じように、晴彦は頭の中で詩織の言う図形を想像する。
「今度は四角形の右下を出発点とするのです。終着点は、〝凹〟の字の、凹んでいる部分とするのです。それで今度も、右手法を使って通路を進んでみるのです」
「四角形の右下から、右手を壁に当てて進むのか」
 つまり、四角形の内壁を触りながら進むということになるのだろう。
「どうなのですか」
「ああ」
 詩織の言う通りだ。さっきはこの方法で終着点まで行けたのだが、今回は無理だ。
「四角形の中をぐるぐる回ってしまうな」
 四角形の内壁からから手が離せないのだから、凹のへこみ部分には到達できない。
「そうなのです。それが右手法の弱点なのです。そして――」
 詩織は、眼鏡の弦を人差し指でちょっと押し上げて、ふたたびパソコンの画面に見入る。
「この迷路は右手法では抜けられない迷路なのです」
「終着点が迷路の真ん中にあるということか」
「そうなのです。この場合はトレモー・・・・・・」
 詩織が説明を続けようとした時だった。

「お待たせ!」

 明るい声が響いた。
 晴彦は顔をあげて声の方へ顔を向けた。
 声は、応接室の入口から聞こえてきた。
 入口には――。
 狐色の髪を靡かせた少女が立っていた。いくらか釣り目がちの、気の強さが伝わってくる少女だった。
 緑色のプリントパーカーで、その豊かな上半身を覆っている。胸部分には「UNIVERCITY SYMBOLS」という文字が白く染め抜かれているが、その文字は豊かな隆起によって膨らんでいる。
 脚はほぼ露出していた。ほどよくくびれた腰に、白いホットパンツが黒いドレスベルトで締め付けられている。そこから伸びる脚は白くて張りがあった。
 雨宮梨奈。
 それが彼女の名前だった。

 その豊満な肉体は、大人の女性を思わせるが、彼女もまた、晴彦や詩織と同じく青葉総合大学に通う大学生である。年齢もそう変わらない。詩織と見比べるとその印象は対照的だ。詩織は華奢で子供っぽく見えるのに対して、梨奈は豊満で艶やかだ。
「クッキー買ってきたよ」
 梨奈は片手にさげている紙袋を軽く掲げて見せた。釣り目がちの目を細めて微笑んでいる表情を見ると、きっとこのクッキーを梨奈は気に入っているらしい。恋人である梨奈の心中は、晴彦にはなんとなくわかる。
「クッキー?-」
 反応したのは詩織だった。パソコンをぱたりと閉じて、「ボンバーくん」ごと机の端に寄せた。その空いた机の中央に、梨奈が紙袋をどさりと置く。
「そう。クッキー」
 梨奈は晴彦たちとは対面の席のソファに腰を沈めた。長くて張りのある脚を組んで、ついでに腕も組む。
「私は干菓子がいいのです」
 詩織は若干むくれたような表情でそう言った。
「干菓子?- 松月庵でしょ」
 梨奈は身を乗り出して詩織の顔をのぞき込む。
「そうなのです。梨奈も松月庵が好きだったじゃないのですか」
「まあ好きだったんだけどねえ」
 梨奈は口を尖らせてこめかみに指を当てた。
「このクッキーも美味しいんだよ」
「どこのお店なのですか」
「すまいる菓子店」
「ああ、あそこなのですか。松月庵の向かいに出来たお店なのですね」
「そうそう」
「あそこのお店は嫌いなのです。お菓子から貸衣装までなんでもござれなんて言ってるから優秀に見えるのですが、要はひとつのことに自信が持てていない証なのです」
 ――お菓子から貸衣装までって。
「守備範囲広すぎだろ」
「とりあず食べてみてよ、美味しいから」
 さあさあ、と言いながら、梨奈は紙袋を漁って中身を取り出した。いくつかの箱が、机の上に山と積まれる。
「ま、待て待てって。イサムがまだいないだろう」
 イサムというのは、やはり晴彦たちと同じくこの事務所でバイトをする同僚であり、学友だ。いくらか言動が少数派なので、ちょっとしたことでも気を悪くしかねない。別にそれでもいいのだが、面倒くさいので晴彦としてはイサムが来るのを待ってから菓子を開けるなら開けたいと思う。
 そう考えていると、まるで見計らったかのように、イサムが姿を見せた。
 ところが、いつもなら颯爽と白い歯を輝かせながら現れるはずのイサムが、今日に限っては元気がなかった。
 普段は明るく軽い印象を与える茶色のマッシュヘアは、なぜか今はそれが重く見える。きっと汗をかいているのだろう。髪に膨らみが見られない。
 ちょっと長めの前髪の合間からは二重で切れ長の目が覗いて見えるが、その目に力がない。眉間に力が篭もっているのが、眉の間に皺が寄っているところから見て取れる。
 蒼白と言って良い表情かもしれない。その表情に拍車をかけているのが、その服装だった。七分袖のテーラードは青く、その下に着ているカジュアルシャツも、水色と白の縦縞と、これまた寒色系だ。白いショートパンツから覗く脛は筋肉が引き締まっていて、鍛え抜かれていることが窺えるが、いかんせん表情と服装が蒼白なので、その力強さも半減する。
 イサム・ルワン・ラーティラマート。
 それがイサムの名前だ。名前からもわかるように、彼は日本人ではない。親日国として名高いフィオ王国の人間である。しかもただのフィオ人ではない。
 フィオ王国の現国王の第四王子というまるで小説の登場人物の設定のような身分の人間だ。だから一般の人間を見下していることが多い――ということは一切ない。表情が曇っているのも、不機嫌だからとかいうことではなく、きっと具合が悪いのだろう。
「どうしたんだよ」
 晴彦はソファに座ったまま、蒼白な表情の外国の友に尋ねた。
「お腹が痛い」
 イサムはひと言、そう答えた。
「はあ?-」
 イサムは沈んだ表情のまま、梨奈の隣りに座ってそのまま腹を抱えるようにして背中を丸めた。
「大丈夫?-」
 梨奈が心配そうにイサムの顔をのぞき込む。イサムは顔をあげずに、
「大丈夫さ」
 と答えた。
「いや、ぜんぜん大丈夫じゃないだろ」
 そう言わずにはいられなかった。真夏の暑さのせいもあるだろうが、イサムの額には汗が浮いている。それも、じっとりとした汗だ。この類の汗は、暑さによるものとは違う。明らかに具合が悪い状態の時のそれだ。
「いや大丈夫さ」
 それでもイサムはそう言って体調の悪さを認めない。
「きのう飲んだ牛乳が少し酸っぱい感じがしたけれども、きっと関係ないだろう」
「明らかに関係しているのです」
 詩織が冷淡に言った。
「とりあえずトイレに行けよ」
「嫌だね」
「なんでそこで意地を張るんだよ」
 イサムの言動はたまに意味を理解することができない。しかも、それがとてつもなく子供のような要求だったりする時がある。決してわがままではないのだが、意表を突かれるので晴彦としてはいつも面倒だと感じる。菓子を開けるのをイサムが来るまで待っていたのもそのためだ。
「僕はトイレには絶対に行かないからな」
 イサムは急に仰け反ると、腕組みをした。それでも腹痛には耐えられなかったらしく、
「痛たたた」
 と、すぐにまた背中を丸めて腹を抱えた。
「くふふふ」
 と詩織が笑った。隣を見ると、詩織が頬を膨らませて笑いの吹き出るのを堪えているようだった。
「何がおかしいんだ」
 晴彦が尋ねると、詩織はぷるぷると肩を震わせながら答えた。
「イサムくんは、怖いのですよ」
「怖いって、何が」
「トイレが、なのです」
「トイレが怖い?-」
 晴彦はイサムに目をやった。イサムは腹を抱えて丸くなったまま、顔だけをあげて晴彦を見ていた。涼し気な顔を苦しそうに歪めながら、イサムは声を絞り出す。
「い、言わないでおくれよ、詩織ちゃん」
「いいえ、言うのです。そうやって我慢をしていてそれ以上具合を悪くしたらどうするのですか」
「具合なんか悪くないッ」
 絶対に嘘だ。
「トイレが怖いってどういうことなんだ」
 晴彦はイサムではなく、詩織に訊いた。
「実はですね」
「言わないでくれよ」
 イサムの必死の制止を無視して、詩織はちょっと面白そうに語った。
「この前、晴彦くんはいなかったのですが、イサムくんがトイレにったのです。そうしたら、急に大きな声を出して飛び出してきたのです。どうしたのかと思って事情を聞いたら――」
 竈馬が出たと言っていたのです――と詩織は言った。
「竈馬?-」
 晴彦はふたたびイサムに目をやった。

 イサムは項垂れていた。さっきまでは腹を抱えながらも顔だけは上げていたというのに、その元気もなくなってしまったらしい。今はがくりと首を前に折っている。茶色のマッシュヘアもだらりとぶら下がっている。
「竈馬」
 くくく、と梨奈は口を抑えて頬を赤くしている。
「と、とにかくトイレには行きなよ」
 震える声で梨奈は言った。明らに笑いをこらえている様子だ。
「い、嫌だ」
 イサムはまだ引かない。
「でも、お腹痛くなるよ」
「もう痛いよ」
「イサムは臆病だからなあ」
 晴彦は胸を反らせると、両手を頭の後ろで組んだ。そしてわざと蔑むような視線をイサムに送る。
「臆病だから竈馬が怖くってもしょうがないよなあ」
 ふふん、と最後に駄目押しで笑ってみせる。
「こ、怖いわけあるかッ。僕はイサムだぞ」
 よくわからない理由だが、晴彦の思った通り、イサムは気持ちの良いくらいあっさりと挑発に乗った。分かりやすいところがイサムの長所であり、また短所だ。
「いいか、僕はトイレに行くけど、決して竈馬が怖くないことを証明するために行くんじゃないからな」
 イサムはソファから立ち上がると、肩を怒らせながら大股で部屋を出ていった。
「さてと」
 イサムの後ろ姿を眺めていると、隣からうっとりとした声が聞こえてきた。
 振り向くと、詩織が顔の横で両手を組み合わせて、机の上のクッキーを眺めていた。
「もう、そろそろこれを食べるのです! もう良いのですよね、晴彦」
「まあ」
 あれほどの腹痛ではクッキーどころではないだろう。
「良いんじゃないかな」
「わあい。それじゃあ食べるのです」
 詩織は両手を頭上にあげて顔を輝かせると、さっそく数ある箱の中のひとつに手をかけた。
「ところで詩織」
「何なのですか」
 詩織は早くもクッキーを頬張りながら答えた。梨奈がそれを見て、食べるか喋るかどっちかにしなよと注意する。まるでお母さんみたいだ。それに対して、えへへと笑って答える詩織はまるで娘のようだ。
「さっき言ってたトレモーとかいうのは何なんだ」
 迷路の解法について話していた時、詩織は確かに〝トレモー〟という言葉を口にした。結局説明を聞くことができずにいたので、晴彦は引っかかっていたのだ。
「トレモーというのは――おおッ」
 言いかけて、詩織は急に大きな声をあげた。
「どうしたの」
 梨奈がクッキーを頬張った口を抑えながら釣り目を大きくした。
「このクッキーは松月庵を遥かに上回る美味しさなのです!」
「さっきはすまいる菓子店は嫌いだって言ってたじゃあないか」
「食べてみたら美味しいのです。これからはすまいる菓子店なのです」
 なんとも心移りの軽いものだ。だが、そんなことは今はいい。それよりも気になることがある。晴彦はそれを尋ねた。
「それでトレモーっていうのは――」

「あッ」

 また声がした。
 後ろからだった。トイレから出たらしいイサムが、晴彦の座るソファの後ろに立っていた。
「僕だってクッキーを食べたかったのに、黙って食べているなんてひどいじゃあないかッ」
 言い草がまるで子どもだ。
「詩織ちゃんはどれを食べたんだい」
「私はこれなのです」
 言いながら、詩織は箱の中にあるクッキーのひとつを指でさした。丸い形で、真ん中に赤いジャムが乗っている。
「なるほど。フルーティーでまるで詩織ちゃんみたいなクッキーだ」
「意味が分からないのです」
「僕もそいつをいただこう」
 言うが早いか、イサムはそのクッキーを摘むと、ひと口で平らげた。
「ンまい」
「なんだか苦い珈琲が飲みたいね」
 と梨奈が発議した。
 まるで新年会か何かのような騒ぎだ。ここはあくまで探偵事務所の応接室だというのに、この騒ぎはなんだと思う。
 ――それにしても。
 ここ最近、依頼らしい依頼がない。それはそれで平和でいいことなのだとは思うけれども、探偵事務所としては貧窮してしまう。頭の痛いことだな、と晴彦は息をついた。
 ふと、テレビに目をやると、また連続少年誘拐事件の報道が流れていた。画面の中では、アナウンサーがしかつめらしい顔で原稿を読み上げている。

〈誘拐されたのは、御子柴祥真さん十二歳――〉

 ぶち、と晴彦はテレビの電源を切った。放ってはおけない事件だとは思うが、探偵は警察ではない。依頼がなければどんな事態が起きても動くことができない。
 今月はバイト代出ないかもなあ、と晴彦はぼんやりと思った。