みっともないところを見られてしまった。
それだけが悔しかったとイサムは思う。事務所のバイト仲間はみんな気の置けない仲だからまだいいものの、何かの拍子で自分が本当は竈馬を怖がっていることを大学内で知られたらたまったものではない。
ため息すら出ない気分を抱えながら、イサムは寮への帰路を歩いていた。
大学に入学している間は寮で暮らすことになっている。寮は学校から近いのはもちろんのこと、バイト先である武智探偵事務所へも近いから便利だ。
それにしても、もう夜も更けている。近いとはいえ、いや、近いからこそ――だろうか。事務所には少々長居をしてしまったと思う。
――これじゃあ課題をやる時間もないや。
イサムは足を止めて空を見上げた。
真っ黒な空に、小さな星が満遍なく散らばっている。都会だというのにほとんど人通りのないこの路地裏は、いつも通る道ながら心地のいい場所だとイサムは思う。狭い道の両側を古びたビルが挟んでいて、その狭苦しさが心地よい。
うう。
何か妙な音が聞こえた。いや、音ではない。これは――。
――声か。
うう。
また聞こえた。やはり声だ。遠くから聞こえる自動車の走行音やクラクショよりも、はるかに近くからその声は聞こえた。
空を見上げていたイサムは、妙に思ってあたりを見回した。
塗装の削げきった薬局の看板。見慣れた看板だが、そこには何もなかない。
次に目をやったのは、もう電源さえ入っていない自動販売機だ。それもいつも通りだった。
虫のたかる古びた街灯。その支柱の根元に――。
誰かがいた。
やや遠目だし、夜の闇に紛れているので明瞭にはその姿は見えない。黒い塊としてしかイサムの目には見えなかった。ただ、その体勢からして、腹を抱えて蹲っていることは分かる。苦しんでいることは明らかだ。
他人事とは思えなかった。
イサムはその蹲る陰の背後へ駆け寄り、そっと声をかけた。
「大丈夫かい」
その瞬間。
陰は突然振り向いた。
格闘技に関して、イサムは素人ではない。特殊部隊の隊員として活躍できるくらいの技と体は鍛え上げてある。
陰がいきなり振り向いたその動きにも、イサムは俊敏に反応した。
イサムは咄嗟に後ろに飛び退いて距離を取り、両腕を軽くあげて戦闘態勢をとった。しかし、それに意味はなかった。
イサムとしては、これから自分に向けられるだろう攻撃に備えて、いくつかの動作を想定していたのだが、それらを頭の中で想像しているほんの一秒にも満たない短い時間のうちに、イサムは顔に冷たい感覚を覚えたのだった。
冷たさの正体は、霧状の液体だった。そう気づいた時は、もう遅かった。
気が――。
気が抜けていく。
抗いようのない感覚だった。全身から力が抜け、イサムは地面に膝をついた。おまけに意識も遠くなっていく。
やがて、イサムは抵抗する気も失せて、やがて――。
本当に意識を喪った。
※
――害意はないようだな。
目が覚めた時、イサムは身動きができなくなっていた。
縛られているのだ。体を、腕もろとも柱に縛り付けられている。縄は腹のあたりに当たっており、しかも相当にきつく縛られているので、腹部が圧迫されて苦しささえ覚えるほどだ。
――でも。
殺されることはないだろうとイサムは踏んでいた。もし殺すつもりなら、気絶した時点で殺されているはずだ。それが今は、縛られはしているものの、怪我はしていない。少なくとも痛みを感じることはない。だから殺されることはないだろうと思ったのだ。殺すにしても、〝すぐに〟殺されるということはないだろう。
つまり、少しの時間かもしれないが、猶予はあるということだ。その間に何とかすれば脱出する算段も立つかもしれない。
とはいえ、こうきつく縛られていたのでは身動きのひとつもできない。
――せめて縄を何とかしないとな。
それが問題だ。
もがいてみるが、体の要所をうまく抑えるように縛られているせいで、縄を抜けることはできない。
ち、と悔しまぎれに舌打ちをした時だった。
扉の開く音がした。重い音だった。
あらためて部屋の中を見まわしてみると、床も天井も壁も、すべてが灰色だった。石でできているのだろう。視覚からも、冷たさと硬さが伝わってくる。
さらに窓ひとつないので息苦しい雰囲気だ。
扉がひらき、部屋に入ってきたのは、妙に艶かしい雰囲気の女と、それを警護するかのように付き従っている中年の男だった。
女は黒いドレスに身を包んでいた。妙に胸元のひらいたドレスだ。その黒いドレスは宝石に彩られいていて、気高さを感じる。その黒いながらも宝石の輝きをまとったドレスは、ゆったりとした意匠でありながら女の体の豊満さを隠しきれていない。胸の隆起も腰のくびれもくっきりと見て取れる。
年齢はよく分からないが、若い娘には醸せないだろう魅力を放っている。波打つ長い黒髪や、目尻を青く縁取る化粧からは、艶めかしさを感じる。頭に載せている小さな王冠と、手に携えている孔雀の羽団扇の優雅な様子が、その妖艶さをさらに引き立てている。
それに比べて、付き従っている男は地味だった。黒い背広を着ているくらいしか特徴はない。ただ、目付きが異様に鋭い。ほっそりとした体つきではあるが、鍛えられているだろうことは背広の上からでもなんとなく見て取れる。
この年齢不詳の妖女と、地味だが存在感のある男が何者なのか、イサムは知らない。見たこともない。
だが、ふたりはどうやらイサムを知っているようだ。
女は、おそらく微笑んでいるだろう口元を羽団扇で隠し、床を滑るかのようにイサムの正面へ寄ってきた。男は喋りもせず、女の斜め後ろに付き従っている。
「誰だ」
とイサムは問いかけたが、すぐに問いを変えた。
「僕をどうするつもりだい」
身元を明かすことはないだろうと考えて質問を変えたが、変えた質問にもまた答えないだろうと、問うてからイサムは思い直した。それでも何か言わずにはいられなかった。
ふふふ、と妖艶な声がした。女が笑ったのだ。羽団扇に隠された口許には、やはり笑みが浮かんでいるらしい。
女は目を細めると、口許を隠していた羽団扇でイサムの頬をそっとなでた。
「フィオ王国のラーティラマート家、第四王子。身分も容姿も、あなたは私のコレクションの中でも至高の逸品となるでしょう」
「コレクションだって」
「そう」
女は羽団扇の先端で、イサムの喉から顎へかけてをつう、と撫でた。身体がぞくぞくする。
「あなたは私のコレクションになるのよ」
「お断りだね」
イサムは即答した。身体が動かせないので、反抗の意思を見せるためにせめて顔だけでも横に向ける。
ふふふ、とまた女は笑った。
「その気の強いところもまた愛おしい」
女は長い睫毛に縁取られた瞳をイサムに向け、まるで嬲るようにイサムの顔に視線を這わせる。
「これは屈服のさせ甲斐があるというもの」
行くわよ、笠口――と女は付き従っている男に声をかけた。は、と男は短く返事をする。女はイサムに背中を向けると、肩越しにちらりとイサムを片目で
見て、
挿絵提供は、ののち様。
「必ず私の意のままにしてみせましょう」
そう言い残し、さっきよりも幾分大きな声でふふふふと笑いながら、部屋を後にした。しもべのように従っていた男も、そのあとに続く。
イサムは、ふたたびひとりになった。
コレクションにする――というあの女の言葉の意味がいまだに理解できないものの、身に危険が及ぶだろうことは理解できた。ならばいっそう早くここを脱出しなければならないが、いかんせん縄の締めつけが強すぎる。どうあがいても動けない。
これでは脱出ができないばかりか――トイレにも行けない。
「おおい、誰かいないか」
駄目元で、イサムは声をあげてみた。
すると、間を置かずにふたたび重そうな扉がひらいて、ひとりの男が姿を現した。
黒いスーツに黒いネクタイ、黒いサングラスをかけて手には黒い革手袋をはめている。ひと目で悪人と判断されるような容姿だ。
「どうした」
男はイサムの正面へ来ると、ひと言、そう尋ねた。
「トイレに行きたい」
イサムも短く答えた。恐怖を感じないのは、両足だけが縛られていないおかげだ。いざとなれば、足技だけでも少しは撃退できる自信がある。
「なんだと」
「だからトイレに行きたいんだ」
「我慢しろ」
「そんなことできるわけないじゃあないか。いいか、僕は昨日酸っぱい牛乳を飲んだんだ。あれはあれで美味しいと思ったが、友人が言うには、それが僕の腹痛の原因となったらしい」
「何を言ってるんだ」
「わからないか。つまり、今僕のお腹は緊急事態にあるということだ。だから早くこの縄を解いて、僕をトイレに連れていけ」
「馬鹿なことを言うな。誘拐した人間の縄をそう簡単に解くわけないだろう」
「そうか。それならそれで構わない。だが、いいのか。さっきも言ったが僕のお腹は今緊急事態なんだ。もし縄を解かないならここでやるぞ。いいや、やるしかない。やる!」
もちろん嘘だが、イサムはそこで力むフリをして見せた。
「ちょちょちょっと待てッ」
男は慌ててイサムを宥める。
「いや、やるッ」
「やめろ!」
「男が一度決めたことは最後まで諦めてはいけないというのが、国王である父の教えだッ」
「やめてくれ。縄は解いてやるからやめろッ」
イサムの予想通りの反応だった。あの優雅な雰囲気の女が、いくらここが牢屋のような場所であったとしても、不浄のもので怪我されることを許しはしないだろう。そんな女の気質を、この部下と思われる男は知っていて、それでイサムの言葉を呑まざるを得なくなったのだ。
「それなら早く、この縄を解け」
「待っていろ、すぐに解くから」
男はそう言うと、黒い背広の胸ポケットから携帯を取り出した。仲間を呼ぶつもりなのだろう。それは妥当な判断だとイサムは思う。
イサムを誘拐する時も力ずくではなくて催涙スプレーのようなもので奇襲をしてきたし、あの女もどういう経緯でかは知らないがイサムの情報を知っていた。となれば、イサムが武芸に秀でていることももちろん調査済みということだろう。
縄を解く前に仲間を呼ぶのは、反撃を予想するなら当然の考えだ。
男は取り出した携帯のボタンを押そうとしたが、押す前に携帯が着信を告げた。
ぎょっとしたような表情で、男は携帯の通話ボタンを押す。
「はい、マダム。何のご用でしょうか」
男は携帯を頬に当てると、妙に畏まった口調でそう言った。
――マダム?-
一瞬疑問に思ったが、そのマダムというのが、あの黒いドレスの女の呼び名なのだろうとイサムはすぐに覚った。
「ワインを運んで来なさいな」
携帯の通話口から、さっきの女と同じ声がそう言うのを、幽かながらにイサムは聞いた。
「畏まりました。すぐにお持ちします」
男はそう言ってからすぐに携帯を切り、次に番号を押して仲間に援護を求めた。
それから五分と経たないうちに、仲間と思われる男たちがぞろぞろとイサムのいる部屋へ押しかけてきた。数えてみると五人もいる。呼んだ男も含めれば六人だ。黒い背広に黒いネクタイ、黒いサングラスに黒い革手袋。みんな同じ格好をしている。制服なのだろうか。
服装はともかく、大の男が六人もいれば、たとえ相手がどんな手練であろうと何とかなるだろうと思ったに違いない。
男たちはすぐにイサムを締め付けている縄を解いた。
体が自由になった。
――今だッ。
イサムは反撃を開始した。
まず正面にいる男の顔面に拳を叩き込んだ。男は呻き声をあげて仰向けに仰け反って床に倒れる。
それに即座に反応したのは、左にいた男だった。手を伸ばしてイサムの髪を掴もうとしたのだろう。素早い動きではあったが、イサムの目から見れば止まっているも同然だった。イサムはそれを左手で払い、払った手を返して、小指の付け根を首に打ち付ける。それで男は床に沈んだ。
瞬く間に二人を倒したイサムに、残りの四人は恐れをなしたらしい。少し距離を置いてイサムの正面を塞いでいる。その四人のうち一人は、携帯を取り出しているところだった。増援を呼ぼうとしているに違いない。六人を相手にするのも大変なのに、これ以上人数が増えてしまったらさすがに相手にはしきれない。
イサムは咄嗟に跳躍すると、携帯を持っている男の胸元に足から突っ込んだ。男はイサムの飛び蹴りに耐えきれず、そのまま床に倒れ込み、携帯を床に投げ出した。イサムは、倒れ込んだその男に馬乗りになっている。男が抵抗を見せる前に、イサムは腹部に強烈な突きを入れて気絶させた。
休む間もなく、残りの三人が同時に襲いかかってくる。
低い姿勢のままだったイサムは、床に手をつくと、そこへ重心を置いて、右足を伸ばして思いっきり回転させた。
そのイサムの右足に、男のひとりが足を払われ、転倒する。すると残りのふたりも、その転倒に巻き込まれて体の均衡を失った。
その隙にイサムはすかさず立ち上がり、三人の顔面と脇腹と鳩尾に、それぞれ蹴りと拳と肘を叩き込んで気絶させた。
瞬時にして動かなくなった六人を見おろして、イサムはため息をつく。
とりあえず体の自由は取り戻した。あとは脱出するだけだ。
イサムは、開けっ放しになっている扉から部屋を飛び出した。
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