魔宮夫人の恐怖! 序章

 黒い、というわけではない。黒というよりも、灰色に近い。しかも極めて白に近い灰色だ。
 それでも黒く見える。それは、あたりに真っ白な霧が立ち込めているせいだろう。
 それは館だった。石造りの、堅固な館だ。灰色の石材は、大理石だろうか。その極めて白に近い、灰色の堅牢な館は、乳白色の霧に満ちた空間の中に、幻のように佇んでいる。

 ※

 どちらが怖いのだろうか。
 この状況か、それとも自分の外見か。
 ――両方だろうな。
 そう考えて、笠口喜嗣は小さく笑った。
 やくざのようだと、よく揶揄される。いつも背広を来ているが、これだけなら普通の勤め人と変わらない。だから笠口がやくざに喩えられるのは、その体格と面相だった。決して筋肉隆々というわけではないが、それでも鍛えあげた胸筋や腕の太さは服を着ていても見えるものであるらしい。顔だって、厳ついわけではない。少なくとも笠口本人はそう思っている。顎は細いし頬骨が張っているわけでもない。髪も前髪を垂らしているから、多少は柔らかい印象を与えるはずだ。髭だって生やしてはいない。それでも目付きは鋭いとよく言われる。視線がまるで氷柱のようだ、と。
 睨まれると氷柱に突き刺されたような感覚を覚えるらしい。
 勝手に思ってろよ、と笠口は思う。笠口にとっては、他人にどう思われようと関係ないのだ。自分自身は己の見てくれに不満はない。何より――。
 ――マダムが気に入ってくれているからな。
 そう思う。笠口が忠誠を誓っている〝マダム〟は、笠口をその外見ごと気に入ってくれている。だから、ほかの人間はどうでもいいのだ。
 〝マダム〟は笠口の隣りに立っていた。
 マダムは妖艶だった。
 黒を基調としたドレスで、その豊満な体を覆っている。胸元は開放的で、谷間がいくらか覗いている。耳にも首にも宝石が輝き、頭には王冠を載せている。その王冠もまた、宝石に彩られていた。
 それでも決して派手ではない。それらの装飾は、マダムの豊満な体と妖艶な見た目をより引き立てている。
 魔宮夫人。
 それがマダムの名前だった。いや、それも本名というわけではない。本名は、おそらく魔宮夫人と笠口以外に知る者はいないだろう。マダムとは、そういう人物なのだ。気高く、美しく、優しく、艶やかで、時に残酷にもなる。そんな多面的なマダムに、笠口は敬意を持っている。
 マダムは笑った。孔雀の羽でできた色彩豊かな羽団扇で口許を覆って、ふふふと小さな笑い声をあげている。
 やくざのような風貌の笠口と、正体不明の妖艶な美女。このふたりに退路を絶たれているのだから怯えるのも無理はないだろう。この状況も、そして笠口の見た目も、幼い子供にとっては恐怖かもしれない。いや、たとえ壮年の男でも、この状況でなすすべがなければ、やはり恐怖を感じることだろう。そして、目の前にいる少年には、実際になすすべがないのだ。

 少年は、石造りの冷たい床に座り込み、笠口とマダムを上目遣いに見あげている。その表情と小刻みに震えている体から、恐怖を感じているだろうことが伝わってくる。
 笠口の調べでは、少年の年齢は十二歳ということになっている。小学生としては最年長の年齢だ。
 黒いシャツに赤いネクタイを締め、青い上着をかけている。白いショートパンツからは、ほっそりとした幼い脚が伸びている。さらっとした黒髪と涼し気な目許は、きっと学校では人気をさらうに違いないと笠口は思う。それでも今は囚われの身だ。学校の中での人気も、その身分も、今は何の役にも立たない。
 少年は、石でできた堅牢な部屋に押し込まれ、その唯一の出口を笠口とマダムに塞がれている。だから、今は怯えるしかない。
「どうやって拉致を」
 マダムが問いかけた。羽団扇で顔の下半分を覆っているから表情はほとんど見えないが、細くなった目と、声の調子から、おそらく微笑んでいるだろうことが想像できる。
「苦労しましたよ」と笠口は答えた。

 

挿絵提供は、はるもと様。


「帰宅途中にクロロホルムを嗅がせてようやく、といったところです」
 その答えに満足したのか、それとも答えなど聞かず、少年の怯える姿を楽しんでいるのか、マダムは視線を落として少年を見ながらただ羽団扇を動かしている。羽団扇から送られる僅かな風に、マダムの黒髪がなびく。その黒くて長い髪は、少し波がかっており、背中まで垂れている。
「僕を、どうするつもり」
 幽かな声で少年が言った。視線は左右に揺れて落ち着かない。笠口とマダムを交互に見ているのだろう。
「おまえは可愛いからね。私のコレクションになるのですよ」
 怯える少年をいたぶるかのような、それでいて艶かしい声だった。
「い、嫌だ。誰か助けて!」
 少年は怯えに堪えきれなくなったらしい。それまでの大人しさを失って急に大声をあげた。
「騒ぐなッ」
 笠口は少年の胸倉を片手で掴みあげると、頬に平手を、腹に蹴りを、一発ずつ見舞った。
「やめなさい、笠口ッ」
 マダムが一喝した。
 笠口はとっさに手を止めた。
「申しわけありません、マダム」
 笠口は掴みあげたままの少年を、そっと床に下ろした。少年は気を失っているようだ。くたりと首を前に折り、背中を、背後の石壁に凭せかけたまま動かない。
 マダムはその場にしゃがみこみ、一転して優しげな声で、美術品が傷物になるではありませんかと言いながら、少年の黒髪を優しく片手で撫でた。
 マダムはまるで猫を愛でるかのようにひとしきり少年の頭を撫でてから、ふたたび立ち上がり、笠口に向けて次の指示を出した。
「次の標的はこの坊やだよ」
 解放的な胸元から一枚の写真を取り出し、笠口に差し出す。
「かしこまりました」
 笠口は写真を受け取りながら命令を受け入れた。
「これは」
「イサム・ルワン・ラーティラマート」
 フィオ王国の第四王子よ――とマダムは答えた。