「晴彦くん――といったかな。きみに選択肢を与えよう」
「選択肢」
「そうだ。まずひとつ目の選択肢は、仲間の命を助けるかわりに、きみ自身が犠牲になることだ。そしてふたつ目の選択肢は、仲間が犠牲になるかわりに、きみ自身が助かるという選択肢だ」
く――と晴彦は呻いた。
「自分が犠牲になるか、もしくは仲間を犠牲にするか、さあ――」
どちらを選ぶ――と晴彦は、究極の選択を迫られた。
――俺は。
――やっぱり黒が良かったかもしれないな。
姿見に映る自分の姿を眺めながら、相馬晴彦は少しの後悔をしていた。気分を変えてみようと、髪を赤く染めてみたのだが、これでは自分の売りとしていた好青年っぷりが少し下がってしまうのではないか。そんなふうに思う。一度、通っている青葉総合大学の講義では、レポートが提出期限に間に合わなかったことがある。しかし教授は、三日だけ期限を延ばしてくれた。その理由はこうだった。
「きみは今では珍しいくらい真面目だからね。何か理由があるのだろう。特別に今回は待ってあげるよ」
その時はまだ髪も黒かったし、もともとそんなに奇抜な格好をしているわけでもなかったから、そう言ってくれたのだろう。晴彦はそう想像している。教授は日本語日本文学学科の専門だからか、少々古風な価値観の持ち主だ。晴彦の素朴な、悪く言えば垢抜けない容姿に好印象を持っていたとしてもおかしくはない。
しかし、髪を赤く染めてみたら、まるで素朴さはなくなってしまった。少なくとも自分ではそう感じている。それでも――。
晴彦は髪から服装へと視線を移した。ピンク色の半袖のポロシャツに、赤いカジュアルベルト。
――この服装になら赤い髪も似合うんじゃないかな。
そう思う。素朴さを失ったということは、言い換えれば洗練された見た目を得たということだ。それならそれで良いだろう。教授の印象は悪くなるかもしれないが、そんなものはどうでもいい。レポートなどは実力でどうとでもなる。レポートの期限が遅れたのだって、決して実力が及ばなかったせいではない。ちょっとした事件に、その時は巻き込まれていたからだ。
――いいじゃないか。
晴彦は腰に両手を当てて、鏡に向かって少し斜めに構えた。片足を軽く〝く〟の字に曲げる。白いチノショートパンツから伸びる脚が少々日焼けしていることに、晴彦は気づいた。
晴彦は少し日に焼けた方がいいよ――。
恋人の梨奈からそう言われたことを思い出す。今の晴彦を見たら梨奈も褒めてくれるだろうか。
ふと腕時計に目をやると、ちょうど午前九時を指しているところだった。
そろそろ事務所を開ける時間だ。梨奈も、ほかの仲間も、そろそろ集まってくるだろう。
晴彦は姿見の前から離れ、部屋の隅に置いてある古びた看板を片腕に抱えた。
そのまま部屋の裏口へ向かい、空いた方の手で扉の取手を捻って強めに押す。蝶番がぎい、と軋み音を立て、蒸し暑い外の空気が晴彦を包んだ。焼けつくような日光が降り注いでいる。まだ朝方だというのに、夏の日差しは容赦がない。晴彦はその眩しさに目を薄めた。そして事務所の玄関へまわり、入口の扉の脇に看板をかけた。看板にはこう書かれている。
武智探偵事務所。
この事務所の実質的な所長役を担っている身として、この瞬間だけはいつも気合が入る。
――さて、今日はどんな依頼が来るだろう。
晴彦は気を引き締めながら、同時に好奇心も抱いていた。
いちばん初めに事務所へ来たのは雨宮梨奈だった。晴彦と同じ大学の同じ学科に所属する同期生であり、恋人だ。
しかし、どういう訳か、近ごろの梨奈は晴彦にそっけない。話しをしないどころか近づきさえしない。何か悪いことでもしたのだろうかと問い質したこともあるが、梨奈は、
「最低」
のひと言でそっぽを向いてしまうありさまだから、晴彦としてもどうしていいのだか分からないでいる。それでもとりあえず、
「おはよう、梨奈」
となるべく明るい調子で声をかけてみた。しかし、と言うべきか案の定、というべきか、梨奈は、
「おはよう」
と晴彦の顔も見ずに抑揚のない口調で返事をしただけで、それ以上は喋らず、自分の席へ向かって歩いていった。その姿を、晴彦はやるせない気持ちを抱えながら目で追う。梨奈は晴彦の前を横切って、まっすぐに正面を見つめながら歩いていく。
長く伸ばした茶色の髪が顔の側面に垂れているせいもあり、表情はよく見えない。しかし、普段は愛くるしく微笑むその顔が、今は仏頂面に顰められていることは確かだろう。服装は、いつも梨奈が愛用しているものだった。緑色のパーカーの胸部分には「UNIVERSITY
SIMBOLS」と白く染め抜かれている。黒のドレスベルトで締められた腰はほどよく締まっており、白いホットパンツから伸びる脚は白くて張りがある。その白い足をきびきびと動かして歩いていく梨奈に、晴彦は、
「あ、あのさあ、梨奈。俺、何か悪いことしたかな」
恐る恐る声をかけた。
「探偵事務所の所長代理ともあろう人が、恋人の不機嫌な理由も察せないの?」
最低だね――と梨奈は言って、椅子に座って足を組んだ。そして、そこで初めて晴彦の顔を見た。二重瞼の、少し目尻の釣りあがった瞳が、晴彦を射抜く。事務所に入ってきてから見向きもせず、やっと視線を寄越してくれたと思ったら、明らかに侮蔑の意思のこもった視線だ。晴彦はやりきれない気持ちになる。
「いや、本当にわからないんだって。頼むよ、頼むから教えてく――」
その時、晴彦の言葉を遮るかのように、ちりん、と鈴の音がした。応接室の扉に取り付けてある鈴の音だ。客が来たらしい。
客を待たせるわけにはいかない。晴彦は梨奈に詰め寄ることを中断し、応接室へ続く扉を開けた。晴彦の後ろには、梨奈も着いてきている。しかし、別段晴彦と近づきたいというわけでは決してないだろう。客への応接という仕事のためだけに着いてきているのだということは、さすがに分かる。そして、それが切ない。
晴彦は応接室へ入るなり、ため息をつきたい気分を抑えて、努めて笑顔をつくって来客に挨拶をした。
「ようこそ、武智探偵事務所へ。今日はどんなご依頼でしょう」
来客は入口にたったまま、ふむ――と声をあげた。奇妙な出で立ちの来客だった。
猛暑だというのに、黒いタキシードに身を包み、頭にはシルクハットを載せている。そして右目には片眼鏡をはめている。一瞬どこの怪盗が現れたのかと思ったが、晴彦は気にしない素振りで、
「とりあえずお掛けください」
と、部屋の真ん中に設えてあるソファへ促した。
「そうかい。ではお邪魔するよ」
異装の来客は、くるりと丸まった細い口ひげを指で摘んでそう言うと、靴音を立てながら部屋へ入ってきて、滑らかにソファに腰かけた。それと同時に、梨奈が客の前に麦茶を置いた。
「外は暑かったんじゃないですか。どうぞこれでも飲んでください」
梨奈は溌溂とした笑みを浮かべている。その笑顔が自分へ向けられないことに、また晴彦の心は締め付けられた。が、今はそれどころではない。きちんと客へ応対しなければならない。
「それで、今日はどういったご用件ですか」
晴彦は、来客と机を挟んで真向かいに座ると、さっそく本題に入った。梨奈は晴彦の横に、お盆を抱えて座っている。
「実はね」
来客は、口ひげを撫でながら口をへの字に曲げた。
「ああ、その前に、ここで話したことは一切外には漏らさないでいただきたい」
来客はそう言って、片眼鏡の奥の薄い目で晴彦の顔を見た。
「もちろんですとも」
晴彦は大きく頷く。
「探偵には守秘義務がありますから、そのへんはご心配なく」
「そうかね。ならば安心して相談させてもらおうか」
と言ったものの、客の顔は緩まない。眉間に皺を寄せ、口もへの字に曲げたままだ。
「私は成瀬右近という名前なのだが――」
妙な名前だな――と晴彦は思った。
「実は、黒猫町の自治会長を務めている」
「黒猫町っていうと、あの――」
反応したのは梨奈だった。目尻のちょっと釣りあがった瞳が、大きく見開かれている。若干の驚きを感じたようだ。
黒猫町――。
それは晴彦も知っていた。鉄道から西側を占める住宅街だ。それも、十億単位の資産を持つ富豪ばかりが集まる高級住宅地だ。そこの自治会長なのだから、この男――成瀬右近――も、よほどの身分に違いない。梨奈が驚くのも無理はなかった。と言っても、梨奈だって雨宮財閥の令嬢なのだから、この男とさほど身分は変わらない。それでも驚いてしまうあたりが、梨奈の庶民的な、好感の持てる一面だと晴彦は思っている。右近は言葉を続けた。
「実はその黒猫町でな――」
窃盗が続いているのだよ――と右近は言った。
「窃盗?」
晴彦は聞き返す。そうだ――と右近は頷く。
「今までに三件、立て続けに、だ。これは困ったということで、今日は依頼に来たんだ。つまり依頼というのは――」
犯人を捕縛するということだ――と右近は言った。
「ちょっと待ってください」
晴彦は手のひらを右近に向けて話を止めた。
「窃盗犯をあげるというのなら、警察の本分ではないですか。なぜこちらの事務所に」
「ふむ。もっともな疑問だね。そう訊かれるだろうとは思っていたよ。先にも言ったが、この話はくれぐれも内密に頼むよ」
「それは承知しています」
「警察へ行けない事情というのがあってね、その事情というのが、実に、その秘密にしておきたいという理由なんだよ」
よく意味が分からなかった。梨奈も理解していないらしい。梨奈は人差し指の先を顎に当て、少し首を傾げた。茶色の長い髪がさらりと揺れる。
「どういう意味でしょう。警察も守秘義務は守ると思いますが」
と梨奈は質問した。
「そう、守秘義務はな。だが警察は捜査をするだろう。取り調べとかな。そういうことをされると、困るのだ。ものを盗まれたという事実、それから、それを通報したという事実を、住民の連中は人に知られたがらない。だから警察には行けないのだよ」
「なぜですか。ものを盗られて警察に報せるのは、ごく当然のことだと思いますけど」
今度は晴彦がそう質問した。右近はそれに対しても、その通りだ――と答えた。ますます話が見えてこない。
右近はまた口ひげをなで、それから、その指で片眼鏡の位置を調整した。
「こんなことを言うと笑われてしまうかもしれないが、黒猫街の住人は――プライドというのかな――見栄っ張りが多くってね、まず盗人に入られたことを知られて間抜け呼ばわりされたくないという。それから、盗まれたものについて通報することで、ひとつの物に固執する貧乏根性の持ち主だと思われると考えている節がある。だから警察へはいけないんだ。いや、正確に言うと、警察へ行けないのではない。盗難届を出せないのだ。かわりに彼らは、紛失届けという形では申し出ているらしい」
「しかし右近さんは、それをご存知じゃないですか」
と、梨奈が尤もな疑問を口にした。知られないようにしている秘密を右近が知っている、というのは矛盾だ。だが、それも右近が想定していた質問のひとつだったらしい。やはりそう思うだろうな――と右近は言って、梨奈の疑問に答えた。
「自分で言うのはおこがましいが、私は自治会長として、秘密を守る、人を軽蔑しないという理由で信頼されていてね、まあ、住民はどうでも良さそうなことから重大事まで、私に話してくれるのだよ」
人の秘密を抱えるのは私としても荷が重いのだがね――と右近は結んだ。
「なるほど」
と梨奈は頷いた。
「右近さんは秘密を守ってくれるし、紛失届けなら捜索や聞き込みもされないから、ひた隠しにしたまま盗品を捜索できる、というわけですね」
「そういうわけだ」
「それで警察ではなく、私たちに依頼された、と――」
「その通りだ。探偵なら、捜査の仕方にも注文を出せるだろうと思ってね」
「つまり、窃盗があったことを知られないような方法で聞き込みや調査をしろっていうことですか」
さすがに少し呆れて、晴彦は率直にそう訊いた。右近は声を出さずに、顎を引いて頷いた。肯定したのだろう。
晴彦は顎の皮膚を摘んで少し考えた。
この依頼は引き受けられるだろうか。失せ物、探し人の類ではない。最終的な目的は犯人の捕縛だ。危険ではないだろうか。
「ねえ」
横から声をかけられた。振り向くと、お盆を抱えたままの梨奈が、その釣り目がちの瞳で晴彦を見ていた。久しぶりにまともに顔を見られた挙句に声までかけられたから、どきりとした。
「なに」
「犯人の逮捕なんて、できるの? 警察でもないのに」
「ああ、そういうことか」
話が事務的な内容だったのでがっかりしながらも、晴彦はそれに答えた。
「結論から言うと、一般人でも逮捕はできるよ。ただし、条件が二つある」
「条件って」
「まずひとつは、現行犯、もしくは準現行犯であること。ふたつ目は、その現行犯の、住所や氏名などが明らかになっていないこと。つまり逃走されたら見つからない可能性があることだね。この二つがクリアされていれば、一般人でも犯人を逮捕することはできる。そして逮捕した後は、ただちにしかるべき機関に引き渡すこと」
晴彦が答えると、梨奈は、ふうん――と唸って下を向いた。そのまま、何かを考え込むように、折り曲げた人差し指を顎に当てて黙りこくる。いつもだったら、さすがに晴彦は詳しいね――などと言って褒めてくれるのに、今回はひと言もない。いったい何に機嫌を損ねているというのだろう。
「きみは詳しいんだな」
と右近が言った。梨奈の代わりに言われたような気がして、晴彦はなんだか複雑な気分になった。梨奈に言われたかったよ――と思わないでもない。
「まあ、俺の母親は弁護士ですし、父は警察庁の官僚ですから、ちょっとだけ法律に関する知識は持っています」
ちなみに、祖父は現職の法務大臣だったりする。二世代に渡る法曹一家だが、晴彦はそんな家族構成に不快感を抱くこともある。
ほっほっほ――と右近は笑った。
「きみの家族は、またずいぶん法曹関係に通じているんだね。そうすると、なんだ。きみも将来はそういう道に進むのかね」
まさしくこういう質問をされた瞬間に、晴彦は家族に不快感を抱くのだ。決して嫌いなわけではない。あくまで不快感だ。
「いえ、僕の夢は推理小説作家です。法曹界へ行くつもりはありません」
もう幾度こういう問答をやってきたか数しれない。そして今のように答えると、必ず相手はこう言うのだ。
ぼんぼんの抱く夢だな――。
きっと今回もそう言われるだろうと腹を括っていると、右近は大きく頷きながら、
「それは素晴らしい」
と言った。覚悟していたのとは違う言葉をかけられたので、晴彦は何だか肩透かしを喰ったような気分になった。思わず、
「え」
と聞き返してしまった。右近は髭を弄りながら、素晴らしいと言ったのだよ――ともう一度言った。
「それほど恵まれた家庭に生まれながら、親の敷いたレールには乗ろうとしない。あえて自ら道を切り拓く覚悟を決めた。それが素晴らしいよ」
うんうん――と右近はひとりで納得し、何度も頷いている。そして、
「頑張りたまえ」
と言った。
「は、はあ」
気の抜けた返事をする。その脇から梨奈が右近に問いかけた。
「ところで右近さん」
「なんだね」
「その依頼なんですけど、直接伯父さまになさったんですか」
「伯父さま?」
右近は首をひねる。
ああ、ごめんなさい――と梨奈は謝った。つい、いつもの呼び方で、この事務所の所長を呼んでしまったようだ。梨奈は、所長の姪なのだ。
「ここの所長です。武智恭介。直接、武智恭介へ依頼なさったんですか? 基本的に、うちは伯父――じゃなくて所長が直接受けた依頼しか受けないことになっているんですが」
なるほど――と晴彦は合点した。さっきから梨奈は何かを考え込むような素振りを見せていたが、そのことについて疑問を持っていたからなのだろう。
梨奈の質問に、右近はもちろんだ――と答えた。
「今、お嬢さんの言ったルールについては承知していたし、武智くんとは知り合いだからね」
「そうなんですか」
晴彦は思わず身を乗り出していた。こんな奇妙な知り合いがいたとは知らなかった。
「しかし、変ですねえ」
梨奈は、まだ何か疑問に思っているらしい。
「もし所長が依頼を受けたなら、私たち全員に連絡が来るはずなんです。でも、私はまだその依頼について知りませんでした。失礼ですけど、依頼相手は間違いなく所長でしたか」
うむ――と右近は顔を縦に振る。
「間違いなく、武智くんだった。ゆうべの午前二時頃かな。ここの電話番号へ携帯からかけたのだ。それで直接武智くんと話して依頼をしたんだ。そうしたら、あらためて明日事務所に相談しに来てくれというじゃないか。だからこうして来たわけだが、あれは間違いなく武智くんの声だった。間違えるはずはない」
「そうですか」
だとしたら、なんで連絡が来てないのかなあ――と梨奈は独り言を呟いている。
「ただの――」
連絡ミスじゃないか――と晴彦が言おうとした瞬間。
視界の隅で何かが光った。峻烈な光だった。振り向こうとする間もなく、庭から爆音が響いた。腹に響くほどの轟音が空気を震わせ、同時に甲高い音がそれに重なった。窓ガラスが割れたようだ。そのガラスの破片とともに、熱気と煙が勢いよく室内に流れ込んできた。
「なんだ!」
「きゃあ!」
「なんだね!」
三人は三様に驚きの言葉を口にし、同時に窓の方を見た。中庭に通じる扉がある。割れたのは、その扉に嵌め込まれているガラスだったようだ。
あまりのことに言葉も出せずにいると、裏口の扉がことりと音を立てて、やがてゆっくりと開いた。そして――。
ひとりの女の子が、よたよたとした足取りで部屋の中に入ってきた。
青いショートヘアを黄色いリボンでツインテールに結んだ、小さな女の子だった。縁のない大きな眼鏡をかけているが、爆発の影響か、その眼鏡は少し傾いていた。その傾いた眼鏡の奥で、円くて大きな瞳が輝いている。首にはピンク色のチョーカーを付けていて、着ているTシャツの模様も、ピンクと白のボーダーだ。胸には、赤と青の二枚の羽が合わさってできたハートマークのようなアップリケが付いている。
丈の短いテニススカートは、白い生地に水色の線が、襞に沿って入っている。
しかし、彼女のそんな清楚な服装も、今は台無しになっていた。さっきの爆発の被害を受けたのだろう。というより、彼女が爆発の原因だったのだろう。服にもスカートにも焦げ跡がついており、ツインテールの青い髪は雑草のように撥ねている。白くてほっそりとした足は、あちこち傷だらけだ。
不破詩織。
それが彼女の名前だった。おもに事務所の経理や電話番を担当しているが、それは彼女の一側面にしか過ぎない。晴彦たちと同じ大学へ通う彼女は、システム科学技術部電子情報システム学科に所属する、メカニックとハッキングの天才である。
その小さな科学技術者の卵は、晴彦たちを見るなり、えへへ――と笑った。
「また失敗してしまいましたです」
片目を閉じ、ちろりと舌を出す。
「どうしたの、詩織」
事態を理解して、若干落ち着きを取り戻したらしい梨奈が、詩織にそう問いかけた。
「大学の講義で出されたレポートの実験をしていたら、失敗して爆発してしまったのです」
そう詩織は答えたが、たぶん嘘だ。
大学でレポートを求められたのはおそらく間違いないのだろうが、それの実験で爆発など起きようはずがない。詩織はレポートなど求められなくても、趣味で普段から何かしら機械を弄っているから、今回もきっとレポートなどではなく、おおかた趣味の方が暴走したのだろう。それしても――。
「どうするんだよ、これ」
晴彦はソファから立ち上がり、詩織のそばまで行って被害を眺めまわした。床にはガラス片が散乱し、周囲は黒く煤けている。ガラスのなくなった扉も、軽く歪んでいるようだ。この爆発のそばにいて、この眼鏡っ子はよく助かったものだと思う。
「怪我はないのか」
晴彦が尋ねると、はい、大丈夫なのです――と詩織は答えた。
「今月のバイト代全額で弁償するので、許してほしいのです」
許すも何もない。今回はとんだ失敗をしたようだが、詩織のメカニックに関する知識と技術のおかげで、今まで扱ってきた事件も切り抜けられてこられたのだ。詩織の失敗を責めるつもりはない。責めるつもりはないが、多少危険な香りがしないでもない。だから、
「まあ、良いよ。修理は先生のほうで何とかしてくれると思うから。でも、気をつけてくれよな」
と言った。先生というのは、所長の武智恭介のことだ。晴彦は先生と呼んでいる。
そして晴彦がソファへ戻ろうときびすを返そうとすると、
「良くはないのです!」
と詩織が叫んだ。そして、腕を勢い良く振り上げたかと思うと、
「右近さんの依頼を引き受けたのは先生ではなく――」
人差し指を立てて、びしりと晴彦を指し示し、
「晴彦くんなのです!」
と力強く言い切った。
ツインテールの青髪と、白と水色のテニススカートがひらりと揺れる。
「はあ?」
思わず口を開けたまま固まってしまった。里奈も、そして右近も、何も言わない。二人とも、ソファに座ったまま晴彦の方を見て固まっている。一瞬の沈黙が部屋を支配した。
詩織は、傾いた眼鏡の弦を人差し指で押しあげ、そして語り始めた。
「まず、昨日の状況から説明しましょう。昨日、午後五時三十分。つまり、この事務所の閉所時間です。みんなが帰ったあと、私はひとりでこの事務所に残っていたのです」
「なんで、また」
「レポートの実験の準備をするためなのです」
さっきの爆発の原因だろう。詩織は、人差し指を立ててそれを天井に向けながら、その場を行ったり来たりしながらさらに話を進めた。
「すぐに終わるかと思ったのですが、案外準備に手間取ってしまい、結局今朝までずっとこの事務所に残る羽目になったのです。その途中で、午後の六時ごろだったでしょうか。先生が一度この事務所にやって来たのです」
「武智くんが来たのかね」
びっくりしたように声をあげたのは、右近だった。ずり落ちそうになったシルクハットを片手で直す。来たのです――と詩織は答えた。
「彼が来るなんて珍しいな。普段は日本中を飛び回っているというのに」
その通りだ。武智恭介は日本では屈指の名探偵だと評判を得ている。そのおかげでいろんなところから仕事の依頼があり、時には海外まで遠征するほどだ。そのため、この事務所にいることは滅多にない。しかしそれでは、この事務所はいつも開店休業になってしまう。そこで、アルバイトとして働いている晴彦たちに信頼を置き、事務所を任せているというわけだ。
「今度、電話で伯父さまに伝えておきます。右近さんがお会いしたがっていたということを」
気を使ったのか、梨奈がそう言った。
「いや、その必要はないよ」
と右近は手のひらを横に振る。
「彼も忙しいようだからね。邪魔をしてはいけない」
「しかし電話くらいなら」
梨奈がなおも喰いさがるが、右近は、いやいや――とさらに断った。
「私に気を使うことはない。だから、まあ、連絡はやめておいてくれたまえ」
「はあ、そう仰るのでしたら……」
梨奈はようやく諦めた。晴彦の位置からは梨奈の後頭部しか見えないが、少し俯いていることから、きっと残念そうに眉尻を下げているだろうことは想像がついた。
梨奈もそこまで押すことはないのに――と晴彦は思ったが、一方で右近も、そこまで遠慮することはないのに――とも思った。
「続きを話してもいいですか」
話の腰を折られた詩織が、割って入ってきた。いや、割って入ったのはむしろ右近の方だろうか。
「ああ、すまんな。話を中断させてしまって。私が依頼したのは武智くんではなく、こちらの青年だとお嬢さんは言う。私もそれは気になるから、ぜひ続きを話してくれ」
と右近は言った。
「では」
こほん――と詩織は咳払いをする。そして続けた。
「さっきも言ったとおり、夕方の六時ごろ、先生がこちらに見えたのです。なんでも、久しぶりに戻ってきたから様子を見に来たんだとか。そしてすぐに帰ったのですが、その時に先生は、忘れ物をして行ったのです」
これがその忘れ物なのです――と詩織は言いながら、部屋の隅にある水槽へと歩いていった。ふるふると白と水色のスカートが揺れる。ほっそりとした足は、無駄のない動きで歩を進める。
水槽の近くまで歩み寄った詩織は、そこで立ち止まり、水槽の上に置いてあったらしい1冊の本のようなものを両手で持った。小さなそれは、詩織の小さな手でも隠れてしまうくらいの小さなものだった。
「これは、先生が最近新しく買った、お気に入りの一冊なのです」
お気に入りの一冊。それなら晴彦にも心当たりがあった。普段は小説など読まない武智の机の上に、一冊だけ小説が置いてあったのだ。それを見て、珍しいなと思ったのを晴彦は覚えている。
「さて、状況説明は次の段階に移るのです」
もはや詩織の独壇場となっていた。詩織は水槽から晴彦の方へ戻ってきながら言った。
「それから時間が進んで、深夜の二時ごろです。ふたたび先生がやって来たのです」
「また来たの」
驚きを口にしたのは、梨奈だった。そうなのです――と詩織は答える。
「そこで私は先生に尋ねました。どうしたのか、と。そうしたら先生はこう答えたのです」
忘れ物を取りに来たのだよ――と詩織は、武智の言っただろう言葉を口にした。
「そこで、たまたま電話がかかってきたのです。それが右近さんからの電話だったのでしょう。これが昨日、私が見た状況です。よって、電話に出た犯人は晴彦くんなのです」
ふ――と晴彦は笑った。
「わからないな」
晴彦は、仮にも推理小説作家志望者だ。他人の推理に穴を見つけることくらいは簡単だ。今の話では、到底晴彦が電話に出た犯人だとは推定できないし、何より決定的な矛盾がある。しかし矛盾は切り札に取っておくことにし、晴彦はまず外堀から埋めていくことにした。
「今の話には俺の名前がひとつも出てきていないじゃないか。それなのに、なんで俺が電話に出た張本人だと分かるんだい」
しかし詩織は怯まない。中指で眼鏡の真ん中を押し上げる。歪んでしまった眼鏡は、すぐにずれてしまうらしい。詩織は淀みなく続ける。
「今話したのは、さっきも言ったように、私が見た昨日の〝状況〟なのです。電話に出たのが晴彦くんだという〝推理〟はこれから話します」
と言っても、そう難しい話ではないのです――と詩織は前置きをしてから、その低い身長からじろりと晴彦を見上げて言った。きらりと眼鏡が光る。
「証拠はこれなのです」
水槽の上から持ってきた冊子を、詩織は両手でぎゅっと胸に抱きしめる。やはり気づいたか――と晴彦は思った。矛盾は切り札にと思っていたが、さすがにそれくらいのことは、詩織も分かっていたらしい。
「それは分かっているよ。俺もおかしいと思っていた」
「ほう、そうなのですか」
詩織の円い瞳に挑戦的な光が宿る。
「では、どうおかしいのか説明してみてほしいのです」
「説明する必要もないだろう。先生はまず、六時にここを訪れた。そして帰り際にその小説を忘れていった。そして深夜の二時頃に、忘れ物を取りに来るためにまたここを訪れ、そこで偶然に電話がきて、それに応対して帰った。それなら――」
なんでその小説を詩織が持っているんだい――と晴彦は言って、肩をすくめてみせた。
「忘れ物を取りに来たのに、それをまた持たずに帰るなんておかしいじゃないか。まあ、電話が来たようだから、そのせいでまた忘れてしまったということも考えられるが、先生はそこまで間抜けじゃない。それに、可能性としては、詩織が勘違いをしていて、先生が忘れ物をしたのは、二度目にここを訪れた時だったとも考えられる。もっとも、その場合、なんで二回もここへ来たのかという疑問が残るけどね。それに、もっと大げさなことを言えば、すべて詩織の証言にしか寄らない。つまり、詩織が嘘の証言をしているのかもしれない。どうやってそれらの疑問を晴らすんだい。それが出来なくては、詩織の推理は成立しないよ」
言ってから、晴彦は片手で赤髪をさっと横に払った。見たか、これが推理作家志望の人間の思考だ――心の中でそう呟く。
くう――と詩織は唇を噛み締め、悔しそうな表情を浮かべた。が、直後、
「なんちゃってね」
と言って、ふたたび挑戦的な目で晴彦を見あげた。晴彦は違和感を覚えた。詩織の表情には、あきらかに余裕がある。自分の主張のどこかにおかしなところがあっただろうか。晴彦が振り返る間もなく、詩織は胸に抱いている冊子を晴彦の目の前に掲げて、ぱらぱらとめくって見せた。
その冊子のページには――。
何も書かれていなかった。
どのページにも、ただひたすら、日付の書き込み欄と罫線が引かれているだけだ。
う――と晴彦は喉を詰まらせた。
――罠か。
すぐにそう察したが、すでに手遅れだった。詩織が追い討ちをかけるように畳み掛ける。
「これは見ての通り、ただの手帳なのです。そして私は、これが何なのか言わなかったのです。晴彦くん、それなのになぜ――」
これを〝小説〟だと言ったのでしょうか――と詩織は背伸びをして、ぐいと顔を晴彦に近づけた。その勢いに押されて、晴彦は一歩退く。
「そ、それは――」
言葉が出ない。詩織は晴彦の言葉を待たずに、自分の理論をさらに展開した。
「確かに先生は、この手帳と一緒に小説も買ったそうなのです。知り合いが出版したというから付き合いで読んでやろうと思ったと言っていたのです」
「待った。そうだ、電話で聞いたんだよ、小説を買ったという話は。ちゃんと着信履歴も残っている」
電話があったというのは本当だった。小説を買ったという話は、実は聞いていないが。
「だから、その手帳を小説と勘違いしてしまったらしい」
晴彦は咄嗟に虚偽の答弁をしたが、無理のある言い訳だと、言ってから思った。動転していたとはいえ、これでは推理作家になる資格などないな、と思っていた。
「先生は確かに、晴彦くんに電話をしていたのです。しかし、小説のことは話していなかったのです」
「う、嘘だ。話したよ」
「それなら、本当に話したかどうか、先生に今から電話して確かめてみましょうか」
「くううう……」
晴彦は全身に力を込めて耐える。
「つまり、晴彦くんには、先生が小説を買ったことを知る機会がなかった。それなのに、小説のことを知っていた。それはなぜかというと、実際に先生の机の上に小説が置き忘れているのを見たからなのです。そして、それを見る機会は、昨日の閉所時間から今日の開所時間までの間。さらに、先生が二度来た以外は誰も来なかったので、二度目の先生は偽物、つまり晴彦くんの変装だったということなのです!」
詩織は人差し指をまっすぐに伸ばして、晴彦に突きつけた。
「くうッ」
晴彦は力尽きた。全身の力が抜けていく。
「はあ。参ったよ」
メカニックマニアだと思っていたら、推理、さらには策謀にも長けていたらしい。ひょっとしたら、この事務所で最強なのは、体の小さなこの少女なのではないかとさえ思えてくる。
「でも、待って」
割り込んできたのは梨奈だった。
「どうしたのですか、梨奈」
詩織は、ソファでこちらを振り返っている梨奈に視線を移した。
「今朝いちばんにここへ来て事務所を開いたのは晴彦でしょ。だったら、小説が置いてあるのを見たのは今朝だった、っていう可能性もあるんじゃない?」
思わぬ加勢に、晴彦は思わず顔の筋肉が緩むのを感じた。しかし、
「ちっちっち、梨奈は甘いのです」
詩織はそう言って、澄ましたように目を閉じ、人差し指を左右に揺らした。
「机の上にあった小説は、晴彦が来ないうちに、私が預かっておいたのです」
「それで水槽の上に置いたんだね」
そう答えた梨奈の口許には、引きつった笑いが引っ掛かっていた。あっけなく加勢は轟沈した。それでも味方をしてくれたことが、晴彦は嬉しかった。
「ありがとう、梨奈」
晴彦がそう言うと、梨奈はその引きっつた笑いをすっと消し、釣り目を薄めて晴彦を冷たく睨んだ。
「別に晴彦の味方をしたわけじゃないの。あたしはただ単に疑問を口にしただけ」
そう言って、梨奈は体勢を戻した。艶やかな茶髪がふわりと揺れ、向こうを向いてしまう。晴彦からはまた後頭部しか見えなくなった。
「いや、しかしな」
次に言葉を発したのは、右近だった。口髭を整えながら、右近は片眼鏡を光らせる。
「今の話が本当だとすると、どうなんだ。お嬢さん」
右近は、詩織に視線を向ける。
「どう、とは、どういう意味なのでしょう」
詩織が問い直す。
「いや、その二回目にここへ来た武智くんは偽物だったのだろう。それをお嬢さんは見ているわけだ」
「もちろんなのです」
「なんで、偽物だとわからなかったんだ」
「ああ、それは」
答えたのは詩織ではなく、梨奈だった。
「この晴彦っていう人は、変装の名人なんですよ」
「変装だと」
「ええ」
「じゃあ、私が電話口で聞いた声はどう説明する。あれは武智くんの声だったぞ」
「晴彦は声帯模写も得意とするんですよ」
「声帯模写とな」
右近は鶏のように首を突き出した。そして、あっはっは――と大きく笑った。
「いや面白い。実に面白い。かねがね聞いてはいたが、この事務所は優秀な人材ばかりが揃っているようだな」
そしてまた、今度は満足げに笑った。
「これなら、今回の窃盗犯捕縛の依頼も、安心して任せられそうだ」
「ちょっと待ってほしいのです」
慌てて詩織が止めた。細かい足取りで、ととととと、と右近のそばまで駆け寄る。
「さっきも梨奈が説明したとおり、基本的にうちの事務所では、先生が直接受けた依頼しか遂行していないんです。今回はこの晴彦くんが勝手に引き受けてしまったので残念なのですが――」
「いいんじゃない?」
詩織の言葉を遮ったのは、梨奈だった。その声ははきはきとしていて、いかにも好奇心が刺激されているといった響きだった。梨奈は、抱えていたお盆を椅子の脇に置き、両手を机について腰を浮かせた。
「その依頼、お受けします」
「梨奈、何を勝手なことを言っているのですか」
詩織が頬を膨らませる。しかし詩織は引っ込まなかった。
「いいじゃん、たまにはさ。いつも依頼を受けるのは伯父さまで、あたしたちは、それを受けて依頼人の方の話を聞いて動くだけだったでしょ。だからたまには、依頼を引き受けるところから始めてみたいみたいじゃん。それに――」
あそこの晴彦も、きっとそう思って変装までして依頼を受けたんだろうし――と梨奈は振り返り、肩越しに冷たい視線を晴彦に送って寄越した。その通りだったが、晴彦と同じ気持ちを抱いていて、しかも、仲間の制止を振り切ってまで依頼を引き受けた梨奈に冷たくされるのは、晴彦としては激しく心外だった。
「そういえば」
と右近が、ぼそりと言った。
「あの時間に私が電話をかけることを、きみは知っていたのかね。そうでなくては、いくら変装しても電話に出ることはできないはずだが」
それは尤もだった。ただ、その時間に電話がかかってくるということは晴彦にも分かっていなかった。
「賭けの要素もありました」
と晴彦は答えた。
「しかし、先生の都合を知っている人は、だいたい夜に電話をかけてくることが多いんです。昼間は忙しくしている人なので。ここの電話への着信は、先生の携帯に転送される仕組みになっていて、それで先生が依頼を把握してから、俺たちに連絡がきて、それで依頼者の方には、あらためてこちらに来ていただいて依頼内容を詳しく把握するという仕組みなんです」
なるほどねえ――と右近は唸るように言った。
「まあ、事情は分かったよ。私としてはとにかく、窃盗犯を捕縛してもらえればそれでいいんだ。依頼は、受け付けてもらえるね」
「もちろんです」
「無理です」
梨奈と詩織は同時に返答した。返答してから、ふたりは顔を見合わせた。視線が絡み合い、火花が散る。決して仲の悪いふたりではないのだが、時々こうして意見が衝突する。
やがてふたりは、無言のまま、同時に晴彦の方へ顔を向けた。その視線を受けて、晴彦は若干たじろいだ。引き受けるか断るか、判断を下せということだろう。事務所のルールに逆らうことにはなるが、依頼を受けるところからやり遂げてみたいという気持ちは、さっき梨奈が離した通りだった。
目を閉じて、晴彦は悩む。ルールに従うべきか。気持ちに従うべきか。
考えていると、
「やっぱりルールを破るの駄目かな」
という梨奈の声が聞こえた。
「え」
晴彦は目を開けた。同時に梨奈が詩織を叱りつけた。
「変なところで声真似しないで!」
へへへ――と詩織は笑っている。晴彦と同じく、詩織もまた、声帯模写を得意としているのだ。
「さあ、晴彦くん! どうするのですか」
詩織があらためて尋ねてきた。
「引き受けよう」
と晴彦は答えた。
「やったあ!」
「ちょっとお!」
梨奈は両手をあげて笑みを弾かせ、詩織は頬を膨らませて不満の表情を全開にしている。
また梨奈の笑顔が見られたので、晴彦も嬉しくなってつい微笑んだが、目が合った途端に、梨奈はまた顔を顰めてしまった。
――徹底的に嫌われてるな。
晴彦は小さく息をついた。
「決まったようだね」
と右近が言った。はい――と晴彦は答える。
「さっそく、事件の詳細を話してもらえませんか」
晴彦はソファへ戻りながらそう言った。しかし右近は、
「そうしたいところだが」
と言いながら、右近はタキシードの袖をまくって腕時計を見た。凝った意匠の腕時計だった。ベルトの部分が、水晶玉を繋ぎ合わせて出来ている。
「もう十時だ。説明をしたいのは山々だが、私にも時間があってね。悪いが事件の詳細も込みできみたちでやってくれんかね」
きみたちには、それくらい能力があるはずだ――と右近は言って、片眼鏡を光らせた。その片眼鏡の奥から発せられる視線を、晴彦は正面から受け止めた。褒めているように聞こえるが、何のことはない。右近は晴彦たちを挑発しているのだ。日本屈指の名探偵・武智恭介の弟子として、それを受けないわけにはいかなかった。
「わかりました。では、そこから始めてみたいと思います」
晴彦も口許を微笑ませたまま、しかし目だけは薄めて右近の目を睨み返した。
ふむ――と右近は唸った。
「そうかね。それは頼もしい話だ。では頼む。期待しているよ――」
名探偵諸君――と右近は言い、片手でシルクハットを取り、胸の前に当てて軽く頭をさげた。晴彦も、慇懃に頭をさげた。
そして右近は去り、事務所の中には晴彦と詩織と梨奈だけが残った。
「どうするのですか」
右近の姿が見えなくなるや否や、詩織が、その丸くてつぶらな瞳に精いっぱい怒りの表情を浮かべて晴彦に噛み付いた。
「武智先生に知られたら大目玉ですよ! それだけではないのです!」
詩織は怒声をあげながら、一歩一歩晴彦に詰め寄る。晴彦はその剣幕に圧されて、逆に一歩一歩さがる。詩織はさらに詰め寄りながら続けた。
「今回の任務は窃盗犯の捕縛です! 危険が伴います! 晴彦くんはそれに対して――」
責任が持てるというのですかッ――と詩織は、最後にひと際大きな声で怒鳴りつけ、床を踏み抜くような勢いで晴彦の爪先近くに自分の足を踏みおろした。小さな体躯の割に、怒った時の詩織はどこか迫力がある。
晴彦は両手を詩織に向けて、まあまあと宥めてみるが、詩織の険しい表情は緩まなかった。
「でも、困ったといえば困ったよね」
梨奈がお盆をテーブルの上に置き、立ち上がりながらそう呟いた。人差し指を頬にあて、少し首を傾げた姿勢で晴彦たちの方へ近寄ってくる。
「なにが」
と晴彦は尋ねた。さっきは両手をあげてはしゃいでいたというのに、どうしたというのだろう。不貞腐れたり喜んだり困ったり――。
――目まぐるしい子だな。
と晴彦は思った。梨奈は眉を八の字に曲げ、視線を斜め下に落としながら悩ましげに言う。
「だって、被害者は、自分が被害者だということを喋りたがらないわけでしょ。それじゃあ誰が被害にあったのか分からない。それだと、捜査のしようもない」
淀みなく梨奈は喋る。今は晴彦と不仲であることを忘れているらしい。仕事の内容に熱心になっているようだ。梨奈が仕事と割り切ってくれていれば、晴彦としても話しやすい。
「それは大丈夫だよ」
と晴彦も事務的に答えた。その味気なさが切ないが……。
「大丈夫って、被害者もわからないのに、何をどうやって捜査するの」
梨奈の二重の釣り目から放たれるまっすぐな視線が、晴彦を捉える。晴彦も、自分に向かって近づいてくる梨奈に歩み寄りながら答えた。
「右近さんも言っていただろう。警察に盗難届は出されていない。でも紛失届けは出しているって」
「それが、どうしたの」
「紛失届けとはいえ、警察に届けが出ているということは、そのデータは警察にあるということだ」
そしてふたりは、対峙したところで歩みを止めた。
「それがどうしたというの」
「データがあるということは――」
晴彦は首をひねって、ちらりと詩織の顔を見る。そして、
「――盗み見ることもできる」
と言った。
晴彦の視線と言葉に気づいたのか、青髪の眼鏡っ子は、その円い目をますます円くした。
そして片手を拳にして、その拳をわりと平らな胸に力強く当てた。得意げにほほ笑む。
「ハッキングなら任せておくのです」
晴彦の意図を察したらしく、詩織はそう言った。そして、自分の得意分野を活かせる機会を得たことに喜んだらしく、
「それじゃあ、ちゃちゃっとやっちゃうのです!」
と言って、例によって細かい足取りで、ととととと、と駆けて、事務所へ通じる扉を開けてその向こうに姿を消してしまった。
晴彦と梨奈は二人きりになった。いい機会かもしれない。晴彦は鼻からひとつ息を吹いてから、梨奈に問いかけた。
「あのさ――」
「あたしたちも事務所へ行ってみましょう」
梨奈は晴彦の言葉をおそらく故意に遮り、詩織のあとへ続いて事務所へ入ってしまった。その間、晴彦には一瞥もくれなかった。
残された晴彦は、また大きなため息を吐いたのだった。
※
ピアニストのようだな――と晴彦は思った。
事務所へ戻り、自分の席についた詩織は、その白くて細い指で怒涛のごとくキーボードを叩き始めたのだ。その指の動きには無駄がなく、ひとつのミスもなしに文字を入力していく。その様子を、晴彦と梨奈は、詩織の座っている椅子の後から眺めている。
こうした詩織の姿を目にするのは初めてではないが、こうじっくりと見るとあらためて大したものだと思う。
画面に目をやると、緑色の背景に白い色で、晴彦には意味のわからない半角の英語と記号が、次々と打ち込まれている。
ひとしきりタイピングを終えた詩織は、
「これでつながったのです!」
と言って、最後に勢いよくエンターキーを押した。
すると、それまで緑色と白色だけの無機質だった画面が、切り替わった。
普通のパソコンのホーム画面のように、いくつかのフォルダが表示されている。詩織は今度はマウスを手にすると、そのフォルダの中のひとつをクリックした。
フォルダが開き、中に収められたファイルが表示される。その中のひとつを、詩織はまたクリックする。
ファイルが開いた。
中身は表になっていて、氏名や住所など、いくつかの入力項目がある。しかしもっとも注目するべきところは、その「被害」と書かれた欄だった。
紛失――。
そう書かれている。そして、届け出主の名前は、山本勇人。住所は――。
――黒猫町。
そう書かれていた。窃盗の被害が出ている町だ。
さらに、「紛失物」を見ると、「虎革の絨毯」などと書かれている。これは紛失するようなものではない。つまり、この被害者は、虎革の絨毯を「紛失」したのではなく「盗難」されたのだろう。
晴彦は右近の言葉を思い出す。
今までに三件、立て続けに、だ――。
右近はそう言っていた。つまり、このような不自然な「紛失届け」を出した人間が、少なくともあと二人はいるということになる。
あと二件探すんだ――と晴彦が言う前に、詩織は持ち前の手際の良さで、すでにさらに二つ、ファイルを開いていた。
「さすが詩織、仕事が早い」
と梨奈が呟くように言った。ぱちぱちと瞬きをしているのは、驚きを感じている証拠だ。恋人であり、幼なじみでもある晴彦には、梨奈の豊かな表情から、その感情は容易に読める。
晴彦は感心しながらも、素早く、そのふたつのデータに入力されている届け出主の名前、住所、紛失物を確認した。
荒川誠、黒猫町、鹿の頭の壁掛け。
清水明、黒猫町、金の壁掛け時計。
それが、残りの二名の名前と住所と紛失物だった。どれも、持ち歩くものではないし、紛失するような細かいものでもない。盗品なのだろう。
「次はどうすればいいのでしょう」
と詩織は指示を仰いだ。まだハッキングしたくてしょうがないといった雰囲気だ。そんな詩織のやる気が今は嬉しい。
「次は、黒猫町の地図をハッキングしてくれないか。どこに誰が住んでいるのか、詳細にわかる地図がいい」
「と言うと」
詩織は口許に人差し指をあてた。
「市役所とかにそういう地図のデータがあるんじゃないかな」
そう提案したのは梨奈だった。なるほど――と詩織は言って、またキーボードを叩きはじめた。
指が踊ると同時に、緑色の画面に文字が打ち込まれていく。
「完了なのです!」
エンターキーを押す。
画面が切り替わった。今度はフォルダなどは表示されず、いきなり地図が画面いっぱいに映し出された。
「これを見てどうするのですか」
詩織の質問に、三件の事件がどんな順番に行われたのかを整理するのさ――と晴彦は答えた。
「そうすれば次の事件がどこで起きるのか、だいたいの予想がつくかもしれない」
「なるほど。次の標的になりそうな家を予測して、窃盗犯を待ち受けて逮捕するわけなのですね」
そういうこと――と晴彦は言った。
「と、すると……」
詩織はマウスを持って、さっき見た紛失届けのデータと、今開いた地図を、ウィンドウを切り替えながら照合し、地図の上に赤い点を打っていった。
まず一件目が、山本勇人。二件目が、荒川誠。三件目が清水明。
「あ」
と梨奈が声をあげた。ぽっかりと口を開けている。
「どうしたのですか」
と詩織が首をひねって、背後にいる梨奈の顔を見あげた。
「次の標的、分かったかもしれない」
と梨奈は言った。そんな梨奈の意見を、晴彦は黙って聞くことにした。梨奈は、上半身をかがめて、画面を人差し指で指しながら説明を始めた。
「まず、ここが黒猫駅でしょ」
画面の右半分にある一点に、梨奈は人差し指を置く。
「それから鉄道を挟んで西側一面が黒猫町」
そして、画面の左半分を人差し指でぐるりと囲んだ。その通りだ。線路を境にして、その西側ほとんどが黒猫町と呼ばれている。地図を見ればわかるが、黒猫町はまさに碁盤の目のようにきっちりと整備されている。
「それで、まず一件目がここ」
梨奈は黒猫駅からそう離れていない部分に指を置いた。そこには、詩織がマウスで打った赤い点が記されている。
「そして二件目がここ、三件目がここ」
梨奈は、残りのふたつの赤点を続けて指で示した。
「最初の現場から、残りの二つの事件は二区画おきに西へ向かっているでしょ。つまり、今度狙われる可能性のあるのは――」
ここでなのですね――と言って、詩織が画面の一部を指で指した。三件目の現場から二区画分、西に離れた家だった。
「そう思うけど」
梨奈は歯切れの悪い語尾を残して、ちらりと晴彦の顔を見た。意見を求めたいといった顔だ。今は仏頂面を貫いているから素直に訊けないのだろう。
「それは妥当な推理だと思うよ」
と晴彦は答えた。そして、
「でも」
とさらに自分の意見を足した。
「自分が犯人だったらって考えてみたらどうかな」
「と、言いますと」
詩織は素直に疑問を口にする。
「この三つの点を見れば、次の標的が今詩織の指摘した家だろうことはおそらく誰でも想像することだ」
「つまり、裏をかかれるっていうこと?」
と梨奈が、晴彦の推理の先を予想した。その通り――と晴彦は答える。
「今回のようにパターンを見出す場合というのは、最低でも三つのデータが必要になる。二つだけでは単なる偶然と見分けがつかないからね。三つでもデータとしては不充分だけど、思い込みとしてのパターンを人に認識させることは可能だ」
つまり――と晴彦は二人の目を交互に見つめながら言葉を続けた。
「パターンを見つけるために必要な三つの事件を起こした犯人が、もし裏をかいてくるとすれば、次の四件目からだと思われる」
「これまでの三つの事件は、陽動だったっていうこと?」
「陽動でもあるし、実際に盗難を目的としてもいた、と考えることもできる。もちろん推測の域を出ないから、確実にとは言えないけどね」
「それじゃあ晴彦くん。もし犯人が次に裏をかいてくるとして、次の本当の標的はどこになるのですか」
「それは――」
分からない――と晴彦は正直に答えた。
「ただ、裏をかいてくるんだから黒猫町ではない確率は高いだろう。少なくとも、さっき詩織が指摘した家である可能性は低い」
俺の予想が正しければね――と晴彦は最後に言い足した。何かを推理するには、現段階ではいくら何でも情報が少なすぎるというものだ。
「もし俺が裏をかくとしたら、黒猫町と線路を挟んで反対側の町――」
晴彦は身をかがめて、詩織からマウスを奪った。そして地図を大きく左へスライドさせて、線路の東半分を画面に表示し、
「――ここ、白犬町だ」
と言った。
「やだ」
梨奈が声をあげて、片手で口を覆った。二重の釣り目が、不安げに歪んでいる。その気持ちも、分からないではなかった。いや、むしろ痛いほどわかった。というのも、梨奈の住まいは白犬町にあるからだ。標的にされるかもしれないと考えたら、恐怖も感じるというものだろう。
「あくまで俺の推測だから、必ず白犬町が襲われるっていうわけじゃない。そう不安がることはないよ。それに――」
それを怖がっていたら犯人の捕縛なんてできないだろ――と晴彦は言って、ちょっと笑ってみせた。それもそうだね――と梨奈は不機嫌そうに言う。晴彦との不仲を表明中なので、賛成するにも気まずさを感じているのだろう。それでも、梨奈の不安が少しでも紛れたなら、とりあえずはそれでもいいかと晴彦は思う。あらためて晴彦はふたりに言った。
「白犬町が襲われるというのは、さっきも言ったけど、俺の偏った推理でしかない。次の犯行も、黒猫町が標的になる可能性は捨てきれない。だから、どちらの警備も怠れない。そこで、メンバーを二手に分けて両方を警備した方がいいと思うんだが――」
「ちょっと待ってほしいのです」
詩織が晴彦の言葉を止めた。
「それは賛成なのですが、二手に分けると言っても、まだメンバーが揃っていないのです」
そうだな――と晴彦は面倒くささをため息とともに吐き出した。
そう、詩織の言う通りだ。まだメンバーが足りていない。この事務所には、もう一人、アルバイトとして勤めている人間がいる。おそろしく優秀で身分の高い人物なのだが、少々独特な性格の持ち主なので、晴彦はその人物に接するのを多少面倒に思っている。とはいえ、その人物とは親友なのではあるが……。
「大丈夫、彼には今から連絡を入れ――」
その時だった。上空から、何やら耳障りな音が聞こえてきた。ばたばた、ばたばたとその音は断続的に聞こえる。
「この音は」
「来たようなのです」
詩織も察したらしい。梨奈は呆れたかのように、無言のまま息を吐いた。三人は、第四のメンバーを迎えるために靴を履いて中庭へ出た。
外へ出ると、灼熱の日光が降り注いでた。三人は眩しさに目を細め、音のする上空を見あげる。
空には、大きな黒いものが浮いていた。音はその黒いものから発せられているのは明らかだった。おまけに強い風圧を感じる。あれは――。
――ヘリコプターだ。
すぐにそうと分かった。日光が逆光となり、黒い塊にしか見えないが、形からヘリコプターであることは明白だった。しかも、地上からそう離れていない高さで空中停止している。
「風が強いのです」
と詩織が言った。目を細めているのは、眩しいからだけではない。ヘリコプターのプロペラから吹きおろれる風圧が強すぎるからでもあった。三人は眩しさと風圧に耐えながら、ようやくその場で立ち姿勢をたもち、なおもヘリコプターを見あげていた。
ヘリコプターからは、何かが垂れ下がっていた。細長いものだ。それは縄梯子だった。その縄梯子の先端には、誰かが掴まっていた。
「はっはっはっはっは」
と、その人物は高笑いをあげた。
――あの馬鹿。
と晴彦は心の中で毒づく。
やがて、その人物は縄梯子から飛び降りた。
空中で優雅に一回転し、そして――。
顔面から着地した。明らかに失敗したようだ。晴彦たちのいる場所から五メートルばかりの距離のところへ着地したのだが、呆れ果てて駆け寄る気にもなれない。しかし詩織は健気にもハッと息を飲み、
「大丈夫なのですか!」
と叫んで、空中から飛来したその人物に駆け寄った。
「はっはっはっは」
とその人物は、顔面に大きな打撃を受けているだろうにも関わず、相変わらず快活な笑い声をあげている。そして両手で服についた土を払い、
「大丈夫かって?」
ハッ――と余裕の笑いを漏らす。そして、僕が大丈夫じゃないわけないだろう――とキザな声で言った。
「仮に大丈夫じゃなくったって、憧れのレディの前では、僕は決して滅びはしないよ」
そして、その人物は片膝を地面につき、騎士が女王に中世を誓うかのごとく、詩織を見あげて言った。
「やあ詩織ちゃん。きみは僕の青い鳥だ。僕とともに自由という名の風に乗り、希望という名の空へともに飛び立――」
言葉は途中で遮られた。
きざな騎士もどきの鼻先には、銃口が突きつけられていた。銃を持っているのは詩織だった。眼鏡の奥の円い瞳が、今だけは凶暴に見える。
「それ以上愛の告白もどきを続けたら、私が発明した、この護身用光線銃RX★マモルくんが火を噴くのです」
騎士は万歳をするように両手をあげて、無抵抗の意思を表示している。そしてひと言、
「ごめんなさい」
と謝った。
「馬鹿すぎる」
吐き捨てるようにそう呟いたのは、晴彦の横にいた梨奈だった。釣り目の上の端正な眉がひくひくと引きつっている。その点については晴彦も同感だった。親友ではあるが、いや親友であるからこそ、そして同じ事務所の仲間であるからこそ、言ってやりたい。
――お前は馬鹿か。
と。
「分かればいいのです」
と詩織は言って、銃をしまった。
「それよりも、今は至急の仕事があるのです。説明を聞いてから、さっそく取り掛かるのです」
「わかったよ、詩織ちゃん」
そう答えると、騎士はようやく立ちあがって、晴彦たちの方へ近づいてきた。その後ろからは、若干怒気を含んだ表情を残した詩織が着いてきている。
騎士は晴彦の正面まで来ると、爽やかに笑って、
「お待たせ」
と言った。白い歯がきらりと光る。
イサム・ルアン・ラーティラマート。
それが彼の名前だった。
親日国であるフィオ王国の、ラーティラマート王家第四王子という信じられない血筋の継承者だ。
晴彦と同じ大学の、国際教養学部グローバルビジネス学科に所属する留学生である。彼の母親は日本人だが、国籍は日本ではなくフィオ王国なのである。
茶色に染めたマッシュヘアをさらりと横になびかせ、その前髪の合間からは切れ長の瞳が覗いている。瞳の色も、髪と同じく茶色だ。水色と白のストライプ柄のカジュアルシャツの上に、水色の、七分袖のテーラードを纏っている。夏にしては少し暑そうな感じはするが、ボトムの白いショートパンツは涼しげだ。そのショートパンツからは、引き締まった脛が覗いている。
「何が〝お待たせ〟だ!」
遅刻してきたイサムに向かって、とりあえず晴彦は怒鳴った。いや、遅刻したことはこの際どうでもいい。放っておいて良いわけではないが、それよりも言っておかなくてはならないことが今はある。
「どういうわけでバイトに来るのに、わざわざヘリコプターを出動させなきゃならないんだよ!」
すでにヘリコプターの姿は見えないが、さっき見たところによると、あれはおそらく軍用のヘリコプターだ。
「おいおい、そんなに怒鳴らないでおくれよ」
とイサムは、切れ長の目に困惑に色を浮かべ、両手を広げて肩をすくめた。
「遅刻して悪いと思ったから、わざわざヘリコプターをチャーターしてきたんだからさあ」
――これが王家の血筋を引く人間の価値観か。
そう思わずにはいられない。きっとこれ以上注意しようが怒鳴ろうが、彼には通じないだろう。晴彦はやれやれとひとりごちてから、イサムに事情を話した。
黒猫町で窃盗が相次いでいること、次の標的は白犬町ではないかと推理したこと、しかしそれらは推理の域を出ないこと、だから二手に別れて、これから搜索に行くところだったこと。それらを簡潔に晴彦は話した。
するとイサムは、ハハンと鼻で笑ってこう言った。
「たった四人を二手に分けて、ふたつの町を警備するっていうのかい。そんなのは面倒じゃないか」
そしてまた、ハハンと笑う。
「じゃあ、どうしろっていうんだ」
晴彦が問いかけると、イサムはごく当たり前のように答えた。
「うちの特殊部隊を投入するのさ」
うちの――というのは、自分の国の、つまりフィオ王国の――という意味である。確かにイサムは、携帯一本で特殊部隊を動員させる権力を持っているらしい。だが――。
それはやめてくれ――と晴彦は呆れ顔をあえて抑えて、平静に断った。
「特殊部隊なんて派手なものを出したら、被害者が誰かバレてしまう。説明したとおり、今回の盗難の被害者は、自分が被害者であることを他人に知られたくない連中ばっかりなんだよ。だから、なるべく穏やかに済ませたいんだ。それに、へたに特殊部隊なんか動かしたら、国際問題になりかねない」
それもそうだねえ――とイサムは案外素直に聞き入れてくれた。
「それでも特殊部隊を動かしてはいけないとなると、僕は仕事が出来ないじゃあないか。どうしてくれるんだい」
「どういう意味だよ」
「だって、そもそも、うちの特殊部隊がなんで特殊かっていうとだね――」
「はいはい」
ぱんぱんと梨奈が手を叩いて会話を止めた。
「フィオ王国の事情はどうでもいいから、とにかく捜索に行くよ」
「それがいい」
と応じたのはイサムだった。話題が変わってもそれに応じて着いてくる。それがイサムだった。ひとつのことにさほど拘らない質なのだ。
「じゃあ、こうしよう」
いきなりイサムが場を仕切り始めた。
「ふたつの町を四人で分担して捜索するんだから、二人一組でひとつの町を担当するんだ。二人組のメンバーは――」
そこでイサムは詩織を見た。
「まず、僕と詩織ちゃん。それから晴彦と梨奈ちゃん。これでどうかな」
「なんで私とイサムくんなのですか」
詩織は円い目を半開きにして、横目にイサムを見やった。
「だって、詩織ちゃんは僕の運命の――」
詩織はふたたび光線銃――マモルくんといっただろうか――を取り出して、イサムの鼻先に突きつけた。
「――じゃなくて」
とイサムは言い直す。
「ほら、最近梨奈ちゃんと晴彦の間がちょっとなんかアレだろ。だからふたりになる機会を作ってあげようと思ってさ」
アハハハ――とイサムは乾いた笑いを漏らす。
「な、何言ってんだよ!」
晴彦は顔が熱くなるのを感じた。思わず声も荒くなる。
「ああ、なるほどなのです」
詩織も納得している。
「それなら私も納得できるのです。仕方がありません。二人組のメンバーはイサムくんの言うとおりに致しますの」
「だから待てって!」
大きな声を出しつつ、晴彦は隣にいる梨奈に密かに視線を送る。すると梨奈も晴彦を見ていた。一瞬目が合ったが、すぐに梨奈は顔を背けてしまった。
ほとんどイサムのごり押しのままメンバーは決まってしまった。
そして、いよいよ出発という段階になって、晴彦は思い出した。
「そうだ、詩織。頼んでおいたものは出来たのかい」
「ああ、そいえば――」
持ってくるので少し待っていてほしいのです――と詩織は言い残して、ととととと、と事務所内へ駆け込んでいった。
「頼んでいたものっていうのは、なんなんだい」
イサムが珍しく真面目な顔で問いかける。切れ長の瞳から放たれる視線は鋭い。この視線に射抜かれたら、ほとんどの女性は落ちてしまうだろう。じっとしていればかなりの男前だというのに、イサムは言動が軽薄だ。もう少し落ち着いてればいいものを――と晴彦はいつも思う。
ああ、ちょっとね――と晴彦は答えた。
「こうやって別れて行動をすることが今までにもあったけど、いろんな発明があるのに、何故か俺たちの連絡手段は携帯だけだっただろ。だから別のものもあった方がいいと思ったんだ」
「携帯じゃいけないのかい」
「いや、いけないわけじゃないさ。ただ、手段がひとつだけだと、それを失った時、もう連絡が出来なくなってしまうだろ」
「ああ、つまり予備というわけだね」
「そういうこと」
晴彦が話している間も、梨奈は黙ったままだった。晴彦と二人で行動することに戸惑いを感じているのかもしれない。ここで心を開いてくれればいいのだが――と晴彦が心配しているうちに、詩織が事務所の中から戻ってきた。頭にはピンク色の野球帽を乗せている。やる気がみなぎっている証拠だ。
「お待たせしましたのです。これが頼まれていたものなのです」
詩織はそう言いながら、手に持っていたものを、晴彦にひとつ、それからイサムにひとつ渡した。
「ありがと――」
うッ――と晴彦は、それを受け取りながら、言葉の最後で思わず唸ってしまった。受け取ったそれの見た目が、晴彦の想像していたのとはだいぶ様子の違うものだったからだ。
晴彦の気持ちをおそらく詩織は察していない。詩織は得意げに眼鏡を人差し指で持ちあげてふっふっふ、と笑った。
「これぞ私の最新作、腕時計型通信機。名付けて『キューティーコミュニケーター★愛野萌芽ちゃん』なのです!」
「あいの――」
「ほうがちゃん――」
渡された通信機を両手に持って眺めながら、晴彦とイサムは引きつった声を出した。
確かに腕時計の形をしている。そして詩織のことだから、機能も完璧に違いない。ただ――。
その見た目に問題があった。
時計の縁もバンドも、ピンク色をしている。さらに、時計の縁はハート型だ。そして、そのハートの両側には、これもまたピンク色の、翼の装飾があしらってある。
「時間がなかったので、二つしか造れませんでしたが、気に入っていただけましたのですか」
と詩織はふたりに尋ねた。眼鏡の奥で、円い瞳がきらきらと輝いている。時間がなかったのは、もしかしたら、このどうでもいい装飾のせいなのではないかと晴彦には思えて仕方がない。これを付けるのは、正直なところ――。
――恥ずかしすぎる。
そう思ったが、
「すごく気に入ったよ」
晴彦は心とは裏腹な言葉を詩織に返した。その輝く瞳を見ては、真っ正直な感想など言えない。
「僕はこれに愛を感じたねえ」
とイサムは言った。そして、右腕にその通信機――愛野萌芽ちゃん――を装着した。
「さすが詩織ちゃんだよ。通信機までこんなにも可愛くデザインしてしまうだなんてね」
そしてイサムは、白い歯を見せてにこりと笑った。しかし晴彦には、その笑顔がどこか引きつっているようにしか見えなかった。額を汗がひと筋流れてもいる。その汗は、きっと暑さによるものではないだろう。おそらく今の自分の顔も、イサムと同じように引きつっているに違いない。
「気に入ってもらえて良かったのです!」
詩織は無邪気に喜んでいる。
――あとで外そう。
晴彦はとりあず腕に通信機をつけた。その時――。
「ちょっと失礼するぞ」
門の方から野太い声が聞こえてきた。そちらへ顔を向けると、門の外に男がふたり立っていた。
一人は見覚えがあった。警視の咲間蒼生だ。すらりとした長身に青いスーツを纏っている。ふわふわの茶髪に童顔の彼は、いつも柔らかな笑みを浮かべている。日頃から晴彦たちに、非公式にではあるが、さまざまな情報を流してくれる良き協力者だ。
だが、もうひとりの男を、晴彦は知らなかった。
図体の大きな男だ。顔は弁当箱のように四角い。髪を短く刈り上げ、太い眉の間には、刻み込んだかのように深い皺が寄せられている。いかにも凶悪な表情だ。
その男は、咲間を従えるかのように後ろに控えさせている。
「なんでしょう」
と晴彦は、怯みそうになるのを堪えて答えた。
「ちょっと、邪魔すんぞ」
と言いながら、その男は門を押し開けて入ってきた。そして大股で近寄ってくると、晴彦と対峙して立ち止まった。
「俺はこういうもんだ」
半袖のワイシャツの胸ポケットから、男は黒い手帳を出して中身を晴彦たちに向けて見せた。
警察手帳だった。
「鬼塚源五郎」
警視正だ――と男は名乗った。警視正ということは、警視よりひとつ上の階級の人間ということだ。つまり、警視である咲間よりも権力を持っていることになる。
「何の用でしょう」
と晴彦は、その圧倒的な迫力に潰されそうになるのをなんとか耐える。
「お前らのことはこいつから聞いてるぜ」
と鬼塚は、背後に控えている咲間を顎をしゃくって示した。
「何かと探偵ごっこをやって遊んでいるそうじゃねえか」
ごっこ――という言葉に、晴彦はかちんときた。しかし、あくまで冷静に答える。
「ええ、先生の信頼を得て、依頼者の方のご要望に応えています」
「今回も、なにか企んでいるみたいだが、これ以上余計な真似をするのはやめてもらおうか」
余計な真似――またしても頭にくる言葉だ。おそらくこの鬼塚という男は、わざと挑発的な言葉を選びながら話しているのだろう。それに対して晴彦も応戦した。
「どこかの公務員の方が必要なことしかなさらないので、俺たちの〝余計なこと〟が多くの方に必要としていただいているようです」
鬼塚の眉間の皺が、一瞬、より深くなった。太い眉が、真ん中にぎゅっと寄る。しかし、激昂はしなかった。
「今も何かやろうとしているようだが、もしそれに足を突っ込んだら、許さねえぞ」
「つまり、俺たちは仕事をするべきではないと仰るんですね」
「その通りだ」
「そうですか」
晴彦は、ふうと息をついた。弁護士を母に持つ晴彦にとって、この程度の相手を論破するのは朝飯前だ。晴彦はさっそく、鬼塚の獣じみた目を見つめながら反撃を開始した。
「では鬼塚さん、俺たちが仕事をするべきではないという主張の根拠を聞かせてください」
「簡単なことだ。一般市民を犯罪の被害に晒すわけにはいかない。警官としてな」
「なるほど。その被害というのは、具体的にはどんなことがあるんですか」
「怪我をしたり、最悪の場合は殺されたり、そんなところだ」
「ほかには」
「詐欺なんぞによる経済的な打撃もあるな」
「それだけでしょうか」
「一概には言えねえが、だいたいそんなところだろ」
それがどうしたってンだ――と鬼塚は逆に問いかけてきた。例えばですよ――と晴彦は言う。
「仮に、目の前で性犯罪に遭っている女性を見たら、鬼塚さんはどうされますか」
「どうするも何も、その犯人を引っ捕らえるに決まってるじゃねェか」
「そのあとはどうなりますか」
「事態を検察に報告して、そのあとは、まあ裁判だな」
「その成り行きを、鬼塚さんはどう思われますか」
なんだとォ――と鬼塚は素っ頓狂な声をあげた。
「そんななァ、あたりめえのことじゃねェか。そんな犯罪者を野に放っておいたんじゃ、同じ被害を受ける奴が後を立たねえや」
「つまり、犯罪者は必ず裁判を受けて有罪判決を受けるべきだ、と鬼塚さんは考えているわけですね」
あッたりめえじゃねェか――と鬼塚は吐き捨てた。
「どこの世界に犯罪者の無罪を願う警官がいるッてんだ。馬鹿も休み休み言いやがれ」
「尤もだと思いますよ。確かに犯罪は撲滅されるべきです。犯罪者は相応の罰を受けるべきでしょう」
しかし――と晴彦は論調を変えた。鬼塚の目を睨んで、やや挑発的に言う。
「犯罪者に罰を与えるためには裁判を行なわなければいけません。その過程で傷つく人が出ても良いと仰るんですか」
「どういう意味だよ」
鬼塚の口調が、いくらか弱くなった。
「セカンドレイプ――という言葉をご存知だと思います」
おう――と鬼塚は唸った。おそらく知っていたフリをしたのだろう、と晴彦は思ったが、それについては触れなかった。
「僕は今性犯罪を例にあげたわけですが、性犯罪の被害者というのは、その後に傷つけられることが圧倒的に多いと言われています」
ご存知ですよね――と晴彦は鬼塚にあえて問いかける。知っていると答えればそれを事実として認めさせることができるし、知らないと答えれば、鬼塚としては自分の面子が保てなくなるだろう。
「まあ、そういう話もあるな」
と鬼塚は案の定そう答えた。さすが警視正です――と晴彦はおだてる。
「裁判や取り調べに呼ばれた被害者は、被害にあった時のことを克明に話すことを強要され、当時の恐怖を再度味わうばかりか、見知らぬ人間が大勢いる前で自分の遭った被害の状況を詳細に晒されてしまうんです。これがセカンドレイプです。鬼塚さん」
最初のあなたの言葉を思い出してください――と晴彦は目を薄めて睨みつける。
「犯罪の危険に晒すわけにはいけない――そう言いましたよね。しかし、性犯罪を例にあげるなら、少なくともそれに限って言えば、犯人を捕まえてから始まる一連の流れこそが、一般人の心を、まさしく傷つける危機に晒すことに繋がっているじゃないですか」
馬ッ鹿野郎! ――と鬼塚は怒鳴った。相当の迫力があるが、理詰めでものを考える頭に切り替わっていた晴彦は、まったくそれには動じなかった。
「だったらてめえは、犯罪者を捕まえるなとでも言いてえのかッ」
激昂する鬼塚に対して、あくまでも晴彦は冷静に答える。
「そうではありませんよ。犯人を捕まえるのはもちろん必要なことです。しかし、逮捕という行為をきっかけに、その後の過程で〝危険に晒すわけにはいかない〟という思いとは逆のことが起きてしまっているんです。いえ、危険どころか、被害者は実際に気絶するくらいの苦痛に晒されることになるんです。つまり――」
鬼塚さんの思いと行動には不一致があるのです――と晴彦は言った。
ぐう――と鬼塚は犬が威嚇するように唸った。
「しかしな、分からんな。確かに俺の言動には矛盾があるのかもしれねえ。だが、それと、おまえたちが仕事をしてはならねえッて話は繋がらねえだろう」
「いいえ、繋がるんですよ」
「どう繋がる」
「今回の被害者の方は、自分が被害者であることを人に知られたくないと思っているんです。とりわけ――」
警察には知られたくないと思っているんです――と晴彦は言った。
「先ほども言いましたが、心に傷がつくという場合もあるのです。そして今回の被害者の方は警察に知られることで傷がつくと言っているんです。だからこそ警察〝ではない〟俺たちに依頼してきたんです。さて鬼塚さん」
晴彦は力強く、人差し指で鬼塚を指し示した。
「あなたはこれでも俺たちに仕事をするなというんですか。言うのであれば、誰がどうやって彼らの被害を、気持ちを、晴らせば良いというんですか」
ぐぐぐ――と鬼塚は唸り、そして、
「分かったよ」
と言った。け――と唾を吐き捨てる。
「しかしな、だからといって、民間人を故意に犯罪に晒すわけには行かねえ。危ねえからな。そこで、だ」
鬼塚はそこで一歩さがって、自分の後ろにいた咲間の肩にぽんと分厚い手のひらを置いた。
「こいつをお前らの見張りとしてつけることにした」
「見張り?」
「そうだ。もしおめえらが度を越したことをやるようだったら、こいつが俺に報告することになっている」
「ごめんね、そういうことになっちゃった」
と咲間は後頭部を撫でながら愛想笑いを浮かべて言った。鬼塚はさらに、唇の片端を釣り上げてちょっと笑って付け加えた。
「なんでも、こいつは今までに、お前たちにいろいろと通じていたそうじゃないか」
鬼塚の言うとおりだ。情報の提供など、咲間には非公式ではあるがいろいろと世話になっている。しかし、この場でそれを認めてしまえば、咲間の警視としての立場が危なくなるだろう。そう考えた晴彦は、あえて惚けた。
「なんのことでしょう」
「ははは、言ってろ。とにかくこいつがおめえらと通じていたことは知ってンだ。つまり、誰よりもおめえたちに詳しいってことだ。だからこいつを見張りにつけることにした。そしてもし、こいつが任務を怠れば、警察内部でのこいつの立場は危なくなるってことだ」
もし仲間としてこいつ危険に晒したくなかったら、言動に気をつけることだな――と鬼塚は言った。
「そんなのは脅迫なのです」
ずっと黙っていた詩織がそう言った。
「脅迫? そんなんじゃあねえよ。組織のルールに従えない奴は罰せられるって事実を伝えたまでだ。お前らはお前らで好きに行動すりゃあ良い」
へへへへ――と鬼塚は下卑た笑いを詩織に向かって見せつけた。詩織は悔しそうに奥歯を噛みしめているが、言い返すことは出来ないでいるようだ。
「それじゃあな、名探偵諸君」
鬼塚はそう晴彦たちにそう言ってから、次に咲間に向かって、お前もしっかり見張るんだぞ――と命じ、そして、
「じゃあな」
と言って去っていった。
その後ろ姿が見えなくなってから、
「むッかつく奴ね!」
と梨奈が心底腹を立てたように言って腕を組んだ。
「まあまあ、梨奈ちゃん」
唇を尖らせている梨奈を宥めたのは、鬼塚に見張りを命じられた咲間だった。童顔に優しい笑みを浮かべて、咲間は両手を下に向けてゆっくりと上下させている。
「鬼塚警視正はああ言ってたけど、基本的に私は今までどおりみんなに協力するから安心してよね」
「でも、目溢しなんかしたら、さっきもあの鬼塚さんの言ってたように、咲間警視の立場がまずくなっちゃうんじゃないんですか」
梨奈は心底心配そうに、咲間の顔を見つめている。
「まあ、そこはなんとでも言い訳はつくよ。それにしても――」
咲間は三日月型に薄めた和やかな目を晴彦に向けた。
「晴彦くんの弁舌は相変わらず鮮やかだったね」
急に呼びかけられて、晴彦は、え――と甲高い声をあげてしまった。そして、いやあ――と言いながら赤髪を指でかいた。
「さて」
晴彦は気分を切り替えて、一同を見回した。ようやくこれで役者は揃ったわけだ。
武智探偵事務所の所長代行であり、変装と声帯模写を得意とする自分、相馬晴彦。
雨宮財閥の令嬢で、晴彦の幼なじみ、そしてちょっと仲の悪い恋人、雨宮梨奈。
フィオ王国の第四王子で、特殊部隊出動の権限を持つ、イサム・ルワン・ラーティラマート。
メカニックとハッキングの天才で、少々特殊な感性を持つ、不破詩織。
今回は見張りとなってしまったが、よき協力者である警視の、咲間蒼生。
なぜか晴彦たちを蔑視する警視正、鬼塚源五郎。
そして――。
いまだ正体の分からない窃盗事件の犯人。
――なかなか面白そうじゃないか。
と晴彦は心の中でつぶやいた。
――よし。
「みんな出発だ」
晴彦は拳を空に向かって突き上げながら、そう号令した。
「任せておいてよ」
とイサムは、茶色いマッシュヘアに手をやり、さらりと横に払う。
「必ず犯人を引っ捕らえてみせるのです!」
詩織がそう宣言して、眼鏡をくい、と指で押しあげた。
「それじゃあみんな気をつけてね!」
茶色に染めた長い髪を風になびかせながら、梨奈が笑顔を振りまいた。
そしていよいよ出発しようとした矢先だった。
「ちょっと、みんな良いかな」
水を差すのを遠慮するかのように、ふわふわの茶髪を頭に載せた童顔の警視が、晴彦たちを呼び止めた。顔には相変わらず優しそうな笑みが浮いている。
一同はきょとんとして、咲間を振り返った。
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