大咲山キャンプ場幽霊騒動 12章:怨霊退散

 しまった、と思った。
 コテージの壁に寄りかかるようにしてしゃがみ込み、ずっとイサムの声帯模写で岩田と話していた晴彦は、つい気を緩めてしまった。体の釣り合いを崩して、うっかり手を壁についてしまった。
「大丈夫なのですか」
 詩織がささやき声で晴彦に手を貸した。その時に、詩織が手に持っていた録音装置を落としてしまい、それが地面の石に当たって、かたりと音を立ててしまった。
 どうやらコテージ内の岩田も、それに反応したようだ。
「この野郎!」
 という怒鳴り声が聞こえた。それから、打撃音のようなものが聞こえる。
「まずい」
 晴彦は声に出してそう言い、走った。
 コテージの入口へ回り込み、入口のドアを蹴破る。

「そこまでだ!」

 晴彦は叫んだ。コテージ内では、岩田が、縛られたイサムの胸倉を掴みあげているところだった。イサムはその端正な顔を顰めて、腰を浮かせている。
 晴彦たちの登場に、岩田は咄嗟に反応した。掴みあげているイサムの後ろに回り込み、その首に片腕を巻き付け、もう一方の手に持った刃物を首筋に当てた。
「ぐ」
 イサムは呻いた。
 人質を取られた形となった晴彦は、身動きを取ることができなくなった。少し遅れて、詩織と梨奈も晴彦の後ろに追いついてきた。晴彦も含め、三人の息切れが虚空に響く。
「動くな」
 と岩田は言いつつ、じり、と一歩さがった。それに引きずられて、イサムも後ろにさがる。
 刺激してはいけない。晴彦はなるべく落ち着いた声で呼びかけた。
「わかった、動かないよ。でも、すまない。すでに警察は呼んである」
「警察?- 俺が何をやったっていうんだ」
 ここに来て、岩田は惚ける気でいるらしい。それなら晴彦の方から教えてやるまでだ。
「大咲山キャンプ場への威力業務妨害、四億円の窃盗罪、少なくともこの二つについて罪は逃れられない」
「そんなことを俺がやったという証拠があるのか」
「私が全部録音していたのです!」
 詩織が、その片手に持っていた録音機を、腕をぐいと伸ばして突き出して見せた。

『らぶらぶ地獄耳録音機★愛の言葉をつむぐ君』なのです!」

 この場合、イサムと岩田が「らぶらぶ」だとでも言うのだろうか。余計な疑問が晴彦の頭をよぎる。
「ノイズをカットして、人の声だけを拡大して録音する高性能録音機なのです!」
「だから何だ!」
 と岩田が怒鳴った。
「録音するのが目的なら、〝らぶらぶ〟なんて名前をつける必然性がないだろう!」
 ――そこか!
 岩田も追い詰められて、だいぶ焦っているらしい。突っ込みどころがずれている。
「愛のない言葉など聞きたくないのです!」
 と詩織が反論した。その独特な感性を否定されたのが気に喰わなかったのだろう。詩織はたぶん――本気で怒っている。
「犯人と探偵の間に愛があるわけないだろう!」
 と岩田がさらに反論した。完全にずれている。
「ちょっと待って、ふたりとも!」
 止めたのは梨奈だった。
「岩田さん、お気持ちはわかりました。今回の幽霊騒動も、四億円事件も、お父さんに対する復讐という気持ちもあったんですね」
 優しく包み込むような声と口調だった。それにほだされたのか、岩田も若干落ち着いた様子で、そうだよ、と答えた。
「了雲が――憎い」
 と岩田は奥歯を噛み締めるように言った。

「お待たせ!」

 背後から声が聞こえた。
 振り向く。
 童顔の青年が立っていた。
 ふわふわの茶髪を頭に載せた、背の高い童顔の青年だった。青いスーツに身を包んでいる。
「咲間さん!」
 その青年の名前を、晴彦は叫んだ。警視という立場から晴彦たちに協力してくれる、よき理解者だ。
 咲間は、傍らにひとりの男を連れていた。
 長く伸びたざんばら髪。夏だというのに身にまとった、穴だらけのコート。そして何より目を引いたのは、彼の顔だった。頬に、大きな火傷の跡がある。そして手の甲には、大きな傷があった。
 晴彦たちの事務所へ、助けを求めてやって来た男だ。あの時、この男は、
 だって私は――。
 幽霊だから――。
 と、そう名乗っていた。
 しかし、了雲と岩田から聞いた話で、晴彦には彼の正体が分かっている。

「岩田さん、よく来てくれました」

 と晴彦はその男の名を呼んだ。
 それには誰もが驚いた。詩織も梨奈も咲間もイサムも、そして岩田自身も――。
 皆、口々にその名を呼び、目を大きく見開いて、その蓬髪の汚い身なりの男に視線を向ける。
「まさか、親父、なのか」
 岩田がイサムを見る。岩田はイサムと話していたつもりだったので、その質問の解答もイサムが知っていると思ったのだろう。本当は声帯模写で晴彦が話していたのだが。
 晴彦はそのへんの説明は省き、質問にだけ答えた。
「そう。こちらが岩田さんのお父さんである――」
「幽霊だ」
 晴彦が名前を言おうとするのを抑えて、彼は言った。
「ところで、なんで私が岩田の父だとわかったのかね」
 岩田の父――幽霊――はそう尋ねた。
「俺はここへ来て、了雲さんから幽霊の特徴について聴きました。そうしたら、了雲さんはこう答えてくれました」
 

 晴彦は、幽霊を自称する男の、火傷の痕の残っている顔を正面から見据えた。
「頬に火傷の跡があり、手の甲に傷がある」
 幽霊はやや顔を伏せ、手の甲をもう一方の手で覆った。
「了雲さんからその特徴を聞いて、あなたのことを思い出したんです。ひとつならともかく、ふたつも同じ特徴を持つ人物はいないだろうと、確信ではないですが、推測はできました。それで咲間さんに頼んで、あなたを連れてきてもらったんです」
「ま、待て!」
 慌てた様子で、岩田が割り込んだ。イサムを人質にとったまま、岩田は続ける。
「俺の父は了雲に会社を潰されて、もうこの世には――」
「いないな」
 岩田の言葉の最後を奪ったのは、彼の父だった。
「私は確かに死んだ。経営が破綻してから、私はお前を捨てて、大阪の貧民街でしばらく暮らした。そこではなんでも売れた。壊れたストーブを直しても売れたし、毛布も売れた。新聞紙一枚も売れたことがある。だがもっとも高く売れたのは――」
 戸籍だった――と蓬髪の幽霊はそう言った。
「戸籍?-」
 また全員が驚いた。晴彦も例外ではなかった。戸籍を売るなどという話は――聞いたことはあるけれど――実際にそんな人を目にするのは初めてだ。
「身元を欲しがる人間は山ほどいてな。その中のひとりに、私は自分の戸籍を売ったのだよ。だから俺は――」
 もう死んでいるんだ――と言った。
「なるほど」
 唸ったのは詩織だった。細い指を顎にあて、やや俯き気味の姿勢で呟くように言った。
「だから私たちの事務所へ来た時、医療は受けられないと言い、〝幽霊〟などと名乗ったのですね」
 幽霊を名乗るその男は、ぼろぼろのコートを揺らして詩織の方へ体の向きを変えた。
「その通りだよ、お嬢さん。私には戸籍がない。法律上は存在しない人間なんだ。しかしこうして喋ることもできるし人の目にも見える。だから幽霊なんだ」
 やぶれたコートを纏った蒼顔の幽霊は、イサムを人質にとっている息子を睨みつけた。そして、
「お前の考えていることは間違っているぞ」
 と強い口調で言った。
「俺の――考えていること」
「そうだ」
 ゆっくりと歩み寄りながら、その父はいう。
「いいか。お前は私の腹いせに四億円を奪ったと言ったが、なんで腹いせなんかする必要がある」
「なんでって――」
 岩田は後ずさりながら、イサムの首に巻き付けている片腕に力を込めたようだ。イサムはまた、う、と呻く。
「だって、親父は了雲のせいで会社を潰されて――」
「それが間違っているというんだ!」
 その薄汚れた身なりと、痩せた体躯からは想像もできないほどの大きな一喝だった。夏の熱気を帯びた空気がびりびりと振動した。これには晴彦も驚いた。あまりの迫力に、喉が詰まったほどだ。詩織も梨奈も、一瞬体を硬直させたようだった。咲間もわずかながら動揺を見せていた。
「確かに私の会社は門倉グループの進出によって潰れた。それは間違いない。だがな」
 大股で、また一歩息子に近寄る。
「それはあって当然の結末なんだよ。私も門倉了雲も、経営者として、相手を潰すくらいの気持ちで経営に臨んでいたんだ。そうでなければ経営というのは成り立たないものなんだよ。だから潰されたからと言って――」
 いや、潰されたのではない――と言い直した。
「潰されたのではないのだ。潰れたのだ。それは企業間の競争において生き残るすべを私が知らず、了雲さんが知っていたというだけのこと。私はただ、潰れただけなんだよ。だから――」
 そこでぼろ着姿の幽霊は、くるりと体を回転させた。コートと、長く伸ばした蓬髪が揺れて、体が反転する。
 戸籍を失った元経営者は、薄汚れた身なりと痩せて傷のついた顔からは想像ができないほど、威厳に満ちた表情を湛えていた。
「だから――怨んでなんぞおりません」
 と、一転、柔和な声で、幽霊を名乗るかつての経営者は言った。その声と視線の方向から、話し相手は晴彦ではなく、また詩織でも梨奈でもなく、咲間でもなく――全く別の人間へ向けられていることがわかった。その視線を、晴彦は追う。その先には――。
 了雲の姿があった。
 了雲は、樫でできた杖に、その老体を預けながらも、背筋を真っ直ぐに伸ばしていた。気迫が漲っているように見えるが、了雲は微動だにしない。よく見れば、目を瞑っているようだ。その片目から――。
 きらりと光るひと筋の涙が流れていた――ように晴彦には見えた。
「くそおおおおおおおおおおおおおッ」
 雄叫びが響いた。
 晴彦はびくりとその声の方へ顔を向ける。慟哭していたのは岩田だった。
「俺は何のためにこれまで生きてきたんだ! 死んだと思っていた父親は生きていて、俺は四億円の窃盗犯になり、業務妨害の罪を負い、おまけに人質事件まで起こしちまった。もうやり直せねえ! いっそ、ここで」
 そう言うや否や、岩田は片手に持っていた刃物を高く掲げた。
 アッと思った。どうやら激昂させてしまったようだ。イサムが危ないと思ったが、距離からして止めようがなかった。咲間も片足を踏み出したが、到底間に合わないと思ったのだろう。その足を止めてしまった。
「イサ――」
 晴彦が仲間の名前を叫ぼうとした時だった。
 イサムが動いた。
 腰の力を抜いたのだろう。イサムの体が沈んだ。その動きに、岩田は反応できなかったらしい。イサムの首を抑えていた腕は、その形のまま残っている。
 

 岩田の顔に焦りが満ちた。ふたたびイサムを捕まえようと体を動かすが、それよりもイサムの動きの方が早かった。
 イサムは――いつの間にか手だけは自由になっていたようだ――両手を床につくと、それを支点に、一気に体をバネのように伸ばした。イサムの、縛られたままの両足が跳ね上がり、岩田の顔面に炸裂した。
「ぐう」
 岩田は低い呻き声をあげて、仰向けに仰け反った。
 すかさず咲間が駆け寄り、背後から岩田の体を受け止め、腕を捻りあげる。そしてその腕に手錠をはめながら、腕時計を見て言った。
「八月十五日、午後八時二十二分、強要罪および逮捕監禁罪にて現行犯を確保」
 そして――。
 事件は解決した。