絶対に勘違いしている。
詩織の姿を見て、晴彦はそう思った。
事務所の庭である。緑の芝生に覆われた庭は、テニスの試合ができるくらいの広さを持っている。道路際には門があるから、外から覗かれることもない。探偵事務所として、見晴らしが良くて、かつ外から覗かれないというのは打ってつけの環境と言えるだろう。
今日はここで事務所の仲間で集合し、幽霊が出るというくだんのキャンプ場へ行くという約束だ。今回は依頼の遂行ということで宿泊代は了雲がもってくれるということだ。そして、ここで待っていれば、了雲の使いが自動車で迎えに来てくれるというから、探偵としての血を騒がせながら待っていたのだけど――。
晴彦は、にこにこと微笑む詩織の姿を眺める。
詩織は普段の姿に加えて、その青いツインテールの髪の上に、ピンク色の野球帽を載せていた。これを被っているということは、詩織がやる気をみなぎらせている証拠だ。だからこれはいい。問題は、その背中だ。
詩織の背中には、その小柄な体格を超えるのではないかというくらいの大きなリュックが背負われている。
「なあ、詩織」
晴彦は怒鳴りたくなるのを抑えて、なるべく穏便に声をかけた。
「なんですの」
詩織は、眼鏡の奥の瞳をきらきらさせながら、満面の笑みで答える。
「いちおう訊くけど、そのリュックの中身は何なんだ」
「ああ、このリュックですね」
詩織は両手でショルダーベルトを握ると、ちょっと振り向いて自分の背負っているリュックを見て言った。
「もちろん、キャンプ用品なのです。私が持ってきたのは、折りたたみテントとランタンなのです」
矢張りそうか、と晴彦はため息をつく。
「あのな、今日はキャンプ場へ行くと言っても、本当にキャンプをやりに行くんじゃないんだぞ。あくまで俺らは探偵の仕事の一環として――」
「間にあったあ!」
詩織に説教する晴彦の言葉を遮って、快活な声が聞こえてきた。
振り向くと、門を開けて梨奈が入ってくるところだった。その姿を見て晴彦は、さらに気を重くした。
「まだ迎えは来てないんだね」
そう言って梨奈は駆け寄ってくる。茶色の長髪が、空気になびいている。緑色のパーカーと、白いホットパンツはいつも通りだ。しかし――。
梨奈の背中にもまた、リュックが背負われていた。
「梨奈!」
と詩織が両手を広げて梨奈を迎える。その両腕の中に、梨奈は飛び込み、そして詩織の小柄な体を抱きしめた。まるで姉妹のようなその親しさには思わず笑みがこぼれそうになる。が、笑んでいる場合ではない。
「梨奈。おまえ、そのリュックどうしたんだよ」
思わず瞼がおりて、じっとりと梨奈を見てしまう。
しかし梨奈は、そんな晴彦の表情など気にせずに、相変わらず活気に満ちた表情と声で答えた。
「私はね、組立式の机と椅子を持ってきたよ」
「なんでそうなんだよ!」
「安心しなって」
梨奈は手のひらで晴彦の肩を叩いた。
「今日は了雲さんが特別に計らってくれるって聞いているから、ちゃんと了雲さんの分まで椅子は用意してるから」
「数の問題じゃない!」
「みんな、お待たせ!」
最後に現れたのは、イサムだった。案の定、イサムもリュックを背負っていた。しかも、梨奈と詩織に比べたら格別に大きいのを背中に負っている。
晴彦は額に手の付け根を当てた。
イサムは晴彦たちの方へ来ると、
「おはよう」
と快活に言いながら詩織と梨奈と、それぞれ空中で手のひらを合わせた。
「やあ、晴彦」
しかしなぜか晴彦とは手を合わせようとしない。
「イサムはなんでリュック背負ってんだよ」
「厭だなあ」
イサムは茶色のマッシュヘアを指先で横にのけると、前髪に隠れていた切れ長の目がのぞいた。
「なんでって、キャンプだからに決まってるじゃないか。僕はコンロと全員分の寝袋を持ってきたのさ」
きらりと、白い歯が夏の日差しを照り返して輝く。
「あのなあ、みんないいか」
うんざりとしながら、晴彦は声をあげる。
「今回はあくまで仕事としていくんだからな。そんなに浮かれた気分で行かないでくれよ」
「えー、いいではないですか」
と詩織が頬を膨らませた。
「そんな固いこと言わないでさ、せっかくなんだから楽しもうよ」
とイサムも歯を輝かせる。
頭が痛くなる。それでも頼りになる仲間ではあるから、いくら晴彦が所長代理という立場とはいえ、頭ごなしに叱ることはできない。
「でもな、みんな、今日行くキャンプ場にはコテージがあるんだぞ。少なくともテントは必要ない。たぶんランタンも」
それでも寝袋は必要かもしれないな、と晴彦は思った。
それから、ああだこうだと十分ほど喋ったころだった。
「お待たせしました」
門を開いて、ひとりの男が姿を現した。
異形の男だった。上背のある痩せた男で、髪を後ろに撫でつけて額を見せている。そして最も目立つのは――。
顔を横断する大きな傷だった。
左目の上から右目の下まで、まるで瓜の割れたような傷が横断している。
なかなか箔のある顔つきだ。しかし口許を綻ばせた表情と、小さく手のひらを振るその動作から、人懐こさを感じる。
「武智探偵事務所の皆さんですよね」
と男は、門を片手で開いたままそう言った。
「そうです」
と晴彦が代表して答えた。
「良かった良かった」
と男は両目を三日月型にして笑顔を作っている。
「私、門倉了雲の付き人をやっています、岩田といいます。今日はキャンプ場へ武智探偵事務所の皆さんをお迎えするように言われています。さあ、準備はいかがでしょうか。車を用意しましたので、整い次第ご乗車ください」
口調も柔らかで人当たりがいい。
準備はできていた。いや、出来ているなんてものではない。出来すぎるほどに出来ていた。
晴彦たちは口々に礼を言いながら、岩田の用意した車に乗りこんだ。
※
車はワゴン車だった。
中段の席に詩織とイサムが乗り、後部座席に晴彦と梨奈が乗った。荷物はまとめて荷台へ載せてある。
席に座って外を眺めていると、だんだんと都会の中心部とは違った景色が流れるようになってきた。
田や畑が見えるようになり、いつもは遠くに見えていたはずの山が、すぐ近くに見える。
走行中は、真ん中に座った詩織とイサムが、ずっと言い争いをしていた。
オバケはいるとイサムが主張すると、幽霊はいないと詩織が反論する。仕舞いには、詩織が何やら化学式を紙に書いて幽霊の不在を証明し始める始末だった。
「いい加減にしろよ」
と晴彦が注意する。
「そうだよ」
と梨奈が晴彦に同調して前にいる二人に言った。
「喧嘩なんてしてる場合じゃないでしょ。これから楽しいキャンプへ行くんだから」
「いや、それも違うからな」
注意の仕方のずれている梨奈を、晴彦は修正する。
「俺たちは探偵としての仕事をするために行くんだよ。オバケ論争をするためでもキャンプを楽しむためでもないからな」
そして晴彦は、運転席の岩田に向かって、
「すみません、決して不真面目なわけではないんです」
と言って謝った。
しかし岩田は笑ってそれに応えた。
「ははは、良いじゃない。僕はきみたちを見ていて羨ましくなったなあ。いいね、若いってのは」
「そういえば、岩田さんはお幾つなのですか」
詩織が、岩田の座るシートに後ろからしがみついて興味深そうに訊いた。それは晴彦も気になった。声や見た目からは年齢を感じない。若く見えるが、案外歳は行っているかもしれないとも思う。
「僕ですか。いやあ、参ったなあ。そんなに人に言えるような年齢じゃないからなあ」
あはは、と岩田は誤魔化した。後部座席に座っている晴彦からも、バックミラーを通して岩田の表情が伺える。左目の上から右目の下へ向かって走る傷跡が、嫌でも目に止まる。
「あの、岩田さん、こんなこと聞いてはいけないのかもしれないですけど――」
「ああ、この傷のこと?-」
晴彦は遠慮がちに言ったが、岩田はいとも気安く傷のことを口にした。これだけ目立つ傷だ。事情を聞かれたことは今回が初めてではないのだろう。もう慣れているのかもしれない。
「これはね」
岩田はバックミラー越しにちらりと晴彦と目を合わせてから、また前方へ目を向けて語り始めた。
「僕はかつて執事をやっていたことがあってね。その時にキッチンで、高い棚に置いてあった新しい包丁を取り出そうとしたら、誤って落としてしまって、その時に顔をやってしまってね」
それはかなり大きな事故だったに違いない。
「こんな傷がついてしまったら主人が不愉快だろうからね。その日のうちに執事を辞めたんだよ」
そう語りながらも、バックミラー越しに見える岩田の表情は、にこやかだ。本当に気にしていないのか、それとも明るさを装っているのか、それは分からない。
「それでも目を傷つけなくて良かったと思っているよ」
と岩田は最後に言った。
やはり訊くべきではなかったのかもしれない。そう思う。すみませんでした、と言うと、別にいいよと岩田は言った。
そのうちに、岩田の運転する自動車は森の中へ入っていき、やがてくだんのキャンプ場へ到着した。
大咲山キャンプ場――。
それが、目的のキャンプ場の名前だった。
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