似合わない。
通されたのは、広さ八畳ほどの和室だった。壁に張り付くような形で棚が設置されており、その中にはファイルがたくさん収められている。部屋の中央には卓袱台が置いてあって、それを取り巻くように座布団が六枚敷かれていた。
卓袱台の上には夏蜜柑が籠に入れられて乗っており、部屋の一角にはキッチンが設けられている。さらにその隣には食器棚が配置されているから、まるで一人暮らしの老人の住まいのようだった。
そして実際に、卓袱台の脇には老人が座っていた。
頭頂部は禿げあがっているものの、頭の周囲には白髪が残っており、それは長く伸ばされていて、後頭部でひとつにまとめられている。痩せた体に菖蒲柄の和服を着流している様は、まるで仙人を思わせる風貌だ。
門倉了雲である。
脇には、あの樫の木でできた曲がりくねった杖が置かれている。やはり老体には、歩くことも重労働なのだろう。
キャンプ場へ到着した晴彦たちは、運転手の岩田から、まずは事務所へおいでくださいと言われ、案内されて来たのがこの部屋だった。事務所というから、もっと会社のオフィスのような部屋を想像していたのだが、まるで茶道にでも使われそうなこの室内の様子に、晴彦は少々面食らった。もっとも、了雲の出で立ちからして会社のオフィスでは似合わない気もするが。
いや、似合うとか似合わないとかいう問題ではないか、と晴彦は思い直す。
「やあ、探偵諸君」
晴彦たちが、畳敷きのその部屋へあがるや否や、卓袱台に肘をついて寛いでいた了雲が、好々爺らしい笑みを浮かべて挨拶をした。晴彦たちも、口々にそれに答える。
「うん、よく来てくれた。君たちに泊まってもらうコテージには、あとで岩田に案内させるから、まずはここでちょっと話をさせてほしい。まあ、とりあえずは座りなさい」
了雲は手を差し伸べて、晴彦たちに着席を促す。
晴彦たちは、勧められるままに、卓袱台の周囲に敷かれている座布団へそれぞれ腰を下ろした。自然と姿勢は正座となる。
晴彦たちが座布団に座ると、岩田は部屋の隅にあるキッチンへ行き、茶の用意をし始めた。
「いや、今日は本当にご苦労さんじゃったな」
と了雲が言った。
「いやあ、車は快適でしたよ」
イサムが答えた。彼はすでに体勢を崩している。足こそ正座のままだが、両手を後ろについて、上半身をだらりとのけぞらせている。切れ長の目が薄くなっているのは、彼が笑みを浮かべている証拠だ。
「そうかねそうかね。気に入ってもらえたなら何よりだ」
了雲はイサムの気ままな姿勢を咎めもせずに、そう言った。
「でも了雲さん。どうせ車を買うなら日本車よりフィオ製にすることをお勧めしますよ。日本車より質が高く、かつお安くなって――」
「やめるのです!」
止めたのは詩織だった。詩織は、その青いツインテールが揺れるほどに激しくイサムの方を向くと、指で眼鏡の弦をつまんで、イサムに顔を近づけた。
「ここへは了雲さんの依頼のために来ているのです。自分の国の車のセールスをするなんて、マナー違反にも程があるのですッ」
そして、晴彦の位置からは見えないが、おそらく詩織は、イサムの太ももをつねりあげたに違いない。
「痛いよ詩織ちゃん!」
イサムは痛みから逃れる勢いで、そのまま後ろに倒れて太ももをさすり始めた。白いショートパンツから覗いているのは膝から下だけだから、詩織はショートパンツの上からつねったのだろう。イサムは痛い痛いと連呼しながら、ショートパンツに隠れている太ももを、倒れた体勢のまま勢いよくさすっている。
「何やってるの! 失礼でしょ!」
梨奈が叱りつけるものの、イサムは起きあがらないし、詩織はまたツインテールを揺らして顔を元の方向へ戻し、頬を膨らませて腕組みをしている。ふたりとも、梨奈の叱責にはまるで無反応だ。
経済界の元大物の前だというのに、この醜態はなんだ。さすがに失礼がすぎるだろうと思い、晴彦はおそるおそる了雲に目を向けた。しかし了雲は、イサムたちの態度を叱るどころか、笑いながら眺めているのだった。それは微笑ましさを感じているというよりも、喜劇を見て面白がってでもいるかのような表情だった。
「それで、話というのは」
晴彦は話を軌道修正した。そうじゃったな、と了雲はあらたまる。
「話がある、というよりは、なにか話しておいた方がいいんじゃないかと思ってのう」
「何か、というのは」
晴彦が尋ねる。
「うむ。それが分からんのじゃ。儂は探偵という稼業に関してはまったくの素人じゃからな。探偵をやる上で必要な情報と、そうでない情報があるじゃろう」
それは確かにそうだった。幽霊の一語だけでは手がかりが希薄すぎる。とりあえず何でもいいから手がかりがほしいところだ。
「だから儂の知っていることだったら何でも話しておきたいが、といって何を話して良いのか分からん。じゃからの」
了雲はそこで視線をぐるりと巡らせて、晴彦たち全員を眺めまわした。
「君たちの方から質問してほしいのじゃ。そうすれば答えるという形になるから答えやすい。知りたいことがあったら何でも訊いてくれ」
なるほど、と晴彦は腕組みをした。依頼人が協力的なのはとても助かる。さて、何を質問するべきか。
「オバケはどんな姿なんですか?」
後ろに転がっていたイサムがいつの間にか起きあがっていて、そう尋ねた。なんとなく投げかけた質問のようだが、これは大切な情報だ。
「あたしも知りたいです」
と梨奈も卓袱台に両手をついて身を乗り出す。
「俺も知りたいです」
晴彦も、了雲の皺と染みで覆われた顔を眺めた。ただ、詩織だけはそっぽを向いている。科学の申し子みたいなこの小柄な眼鏡少女は、オバケとか幽霊とか言う言葉には過剰に嫌悪感を覚えるようだ。
了雲はすぐには答えず、顎の皮をつまんで少し考えてからぽつりと言った。
「記憶が曖昧だから確かなことは言えないが」
と了雲は前置きをした。確か了雲が晴彦たちの事務所へ来た時もそんなことを言っていた気がする。記憶は曖昧だ、と。
「なんではっきりとは覚えていないんでしょうか」
晴彦はそう尋ねた。もし幽霊など見たとしたら、鮮烈に印象に残りそうなものだ。
「はっきりとは見えなかったんじゃよ」
と了雲は答えた。
「夜だったしな。寝ぼけていたし、見えたのも一瞬だけだった。だから曖昧なんじゃよ」
「なるほど」
一応筋は通っている。依頼人の言うことが、いつも真実であるとは限らない。恥と思うことを隠すために意識的に嘘をつくこともあるし、事実を誤認している場合もある。意識的、無意識的にしろ、それが真実であるかどうかを確かめる必要は常にあるというものだ。
しかし、了雲の記憶が曖昧である理由には納得できた。しかし、記憶が曖昧であると確定したということは、それはつまり、何かの見間違いである可能性も充分にあるということだ。
了雲は続けた。
「曖昧じゃが――」
そして両腕を組んで唸るような低い声で言った。
「頬に火傷の痕があったように思うな」
「頬に火傷」
梨奈が両腕で自分を抱きしめて震えた。そうじゃ、と了雲は頷く。梨奈の怖がっている様子には頓着していないようだ。
「実のところ、幽霊騒ぎが起きてから、儂は岩田の勧めで霊媒師に診てもらったことがあるんじゃよ」
「岩田さんの勧めで?-」
イサムが、その彫りの深い二重まぶたの目を、流し台にいる岩田へ向けた。
岩田は丁度、茶を淹れ終わったところだった。
盆に六つの茶碗を載せて、岩田は晴彦たちの方へ寄ってくる。そして傍まで来ると、畳に膝をついて、みんなの前にひとつずつ茶碗を起きながら言った。
「そうなんだよ。いや僕もね、幽霊なんて信じちゃいないんだけど、問題はお客さんなんだよね」
そして茶碗を置き終わると、了雲の横に空いていた一枚の座布団の上に正座をし、お盆を脇へ置いてさらに言葉を続けた。
「ほら、いくら僕らが信じてないって言っても、実際に来なくなっちゃったお客さんは信じているわけでしょ。だから来なくなっちゃったわけで。でも、そのお客さんたちのもとへ行って、わざわざ幽霊を否定して回るようなことはできないわけだから、もう幽霊を認めてしまおうって思って」
にこにこと愛想の良い顔をしているが、岩田の顔には大きな傷があるから、どうしてもそれへ目がいってしまう。
「つまり、幽霊はいますよ、という前提で対処しようとしたわけなのですね」
詩織が岩田の話の先を受けて言った。さっきまでそっぽを向いて拗ねていたというのに、元気が回復している。岩田が幽霊否定論を語り始めたから、いくらか機嫌が良くなったのかもしれない。そういうこと、と岩田は詩織に答えてから言った。
「幽霊はいるものとして対処したんだ。その対処というのが霊媒師だったんだけどね」
「それで、どうなったのですか」
と詩織が先を促した。うん、と頷いて岩田は顔を曇らせた。口の両端を下げ、眉尻も力なくさげる。
「まあ、きみたちに依頼したことで結果がどうなったのかは明白なんだけどね」
「つまり効かなかったっていうんだね」
今度はイサムがわりこんだ。そうなんだよね、と岩田は下を向いたまま頷いた。
「霊媒師から幽霊の存在を――少なくともこのキャンプ場には存在しないということを明言してもらえれば、幽霊を怖がっているお客さんたちにも安心してまた来てもらえるようになると思ったのだけど」
そうはいかなかったということなのだろう。
「よりにもよって霊媒師はな」
了雲が岩田のあとを続けた。
「霊は確実にいる、と逆にそんなふうに断言してしまったんじゃよ」
「はあ?-」
詩織が思いっきり不満をあらわにした。目の前に出された茶碗を両手で包み、でも飲むわけではなく、その両手に体重をかけていくらか前かがみになる。
「そんなことってあるのですか。呼んだ意味がないのです」
まったくだな、と了雲は同意した。枯れて皺だらけになった手で茶碗を持ち、麦茶をひと口飲む。
「儂もな、万が一幽霊がいると言われた時のことを考えて、非公開で霊媒師を呼んだんだが、一方で、いないと言われた時の宣伝効果を考えて、うんと有名な霊媒師に頼んだんだ。有名だから、カストリみたいな三流雑誌の記者が隠れて着いてきていてな、幽霊はいると断言したところをカメラに撮られてしまったんじゃよ。それで幽霊騒動にいっそう拍車がかかってしまったというような按配じゃ」
「そんなの名誉毀損で訴えたらいいじゃないですか」
梨奈が声を荒らげた。自分のことでもないのに憤りを感じているらしい。釣り目気味の目が、今はいっそう釣り上がっている。
「それができないんだよね」
と岩田が答えた。
「なんでよ」
「だって幽霊が出ることを広められて被害を受けたと言って訴えるということは、逆に言えば幽霊が出るということを認めてしまっていることになるでしょ」
「ああ」
詩織は、唇をすぼめて、そこへ人差し指を当てて俯いた。茶色の長髪が前に垂れる。
「なるほど」
納得したらしい。
「まあ、だから」
了雲が険しい表情をしている。
「汚名返上のために、本当にきみたちを頼りにしてるんじゃよ」
「任せておくのです!」
詩織が胸を反らせてそこへ拳をあてた。
「この世には幽霊なんていないのです。科学の徒であるこの私が、その幽霊とかいうものを科学の力で解明してやるのです!」
「頼もしいのう」
了雲は笑みを取り戻し、張り切る詩織の姿を眺めている。
「霊媒師は、具体的にはなんと言ったんですか」
晴彦はそう訊いた。
「なんと――というと」
晴彦の質問の意味が理解できなかったらしく、了雲は問い返した。
「霊媒師は、どんな言葉で幽霊の存在を認めたんですか。ただ〝いる〟とだけ言ったんですか。それとも、ほかに何か別のことを言いましたか」
「ふむ」
了雲は顎をつまみ、どうじゃったかな、と隣にいる岩田に訊ねた。
「了雲さま、お忘れですか」
岩田は眉尻をさげて呆れ顔をつくると、当時の様子を思い出すかのように、視線をあげて答えた。
「霊媒師は、かなり怖いことを言ってたじゃないですか。了雲さまに恨みのある死者の霊がいるとか」
ああ、ああ、そうじゃったそうじゃった、と了雲は何度も頷いた。
「そう。岩田の言う通りじゃ。そんなことを言われたわい。ここに出る霊は、儂に怨みを抱きながら死んだ者の霊なんだそうだ」
「そう、ですか」
晴彦は腕を組んで、片手の人差し指を額にあてた。
「どうしたんだい、晴彦。何を考えてるんだい」
イサムが心配そうに声をかけた。マッシュヘアの前髪から覗く瞳には、本当に晴彦を心配するかのような色がうかがえる。
「いや、何でもないよ」
と晴彦は答えた。霊媒師の言葉から、何か情報は得られないかと思ったが、別段気に留まるようなことはなかった。ただ、その霊媒師は本物なんだろうか――という疑問が残っただけだ。
「それより、きみたちも来たばっかりで疲れてるでしょ。せめて麦茶を飲んでよ」
と岩田が、傷の入った顔を綻ばせてすすめた。
そういえば、出されたきり、晴彦たちはまだひと口も麦茶を飲んではいなかった。
「いただくのです!」
詩織がそう言って、茶碗を両手で持ち、一気に煽った。上を向いた詩織の喉仏が、音を立てて上下する。そして一気に麦茶を飲み干した詩織は、ぷはあッ――と勢いよく息をつく。
「美味しいのです!」
たん、と勢いよく茶碗を卓袱台の上に置く。そうじゃろうそうじゃろう、と了雲は顔を上下させる。
「特別な麦茶を使っているのですか」
「そうじゃあないよ」
と了雲は詩織の言葉を否定した。
「これはな」
岩田のおかげじゃよ、と了雲は言った。
「岩田さんの?- どういう意味なのですか」
詩織は首をかしげて、岩田に目をやった。丸眼鏡の奥のつぶらな瞳が、好奇心をみなぎらせているかのように輝いている。
「いやあ、勘弁してくださいよ、了雲さま」
岩田は後頭部を掻きながらはにかんだ。謙遜することもなかろう、と了雲は言う。
「この岩田という男はな、気を使わせたら日本一、いや――」
世界一じゃな、と了雲は言った。
「儂が今彼を雇っているのも、実にこの行き届いた気遣いを買ったからじゃ」
いやあ、と岩田は後頭部を掻きながら背中を丸める。褒められるのが恥ずかしいのだろう。そんな岩田に構わず、了雲はさらに岩田を褒めた。
「昨今、どんなに優秀な人間の中にも、彼ほど気遣いのできる人間はおらんよ。岩田は学歴こそ高校中退と大したことはないが、この気遣いの才は学歴を凌駕して余りあるというものじゃ」
よしてくださいよ、と岩田は背中を丸くしたまま言った。
「それより、そろそろコテージの方へ移動しようか」
岩田が話題を反らせるようにそう言った。了雲もあえて話を戻そうとはしなかった。
「そうじゃな。岩田、案内をしてやってくれるか」
「かしこまりました」
岩田は畳に両手をついて頭を下げたあと、さあこちらへ、と言いながら立ちあがった。
晴彦たちも促されて、座布団から腰をあげた。
「さあ」
岩田が手を差し伸べながら、和室を出ていく。晴彦たちはその後へつづいた。
※
事務所を出ると、焼けつくような日差しが降り注いできた。
それでも武智探偵事務所のある都会のような、容赦のない暑さではない。田舎だからなのかもしれないが、そんな抽象的な理由ではなく、おそらく一帯を囲む森林が日差しを弱めているからだろう。降り注ぐ陽光は、頭上を覆う木々の枝葉に濾されて幾分柔らかくなっている。枝葉の間をくぐり抜けてきた日差しが、地面にまだら模様を作っている。
「いやあ、暑いねえ」
とイサムが言った。上を見るイサムの、茶色のマッシュへアが顔の角度に合わせて横に流れる。どんな動作をしても様になるのがイサムだ。
「夏なんだから、当たり前なのです」
冷たく詩織が言った。大きくて円い瞳が、今は半開きになっていて、ねっとりとした視線をイサムに送っている。幽霊存在論争をいまだに根に持っているらしい。
「厭だなあ、詩織ちゃん。まだ根に持っているのかい。せっかくキャンプへ来たんだから楽しく過ごさないと損ってもんだよ」
にこりと笑う。歯が、白く輝く。
ふん、と詩織は鼻から息を吹いて顔を背けた。それを見てイサムは、あはは、と乾いた笑いを漏らした。その様子を見て、梨奈が口許に手をあててくすくすと笑っている。
「あのなあ、イサム」
晴彦はうんざりとした気分でイサムに忠告する。
「もう何回も言ってることだけど、俺たちはキャンプを目的に来てるんじゃなくて、あくまで仕事できてるんだからな」
「なあに、わかってるさ」
ははは、とイサムは爽やかに笑う。
「もちろん仕事はやるさ。そしてなおかつ、キャンプも楽しむ。どっちかしか選んじゃいけないなんて、誰が決めたんだい」
「決めちゃいないが、そういう浮ついた心持ちは少し抑えてほしいと言ってるんだよ」
ははは、と今度笑ったのは、イサムではなかった。晴彦たちをコテージへ案内するべく、先頭を歩いている岩田だった。
「仕事熱心なんだね、きみたちは」
「もちろんです!」
イサムが元気よくそう答えた。お前が言うな、と言いたいのを晴彦は飲み込む。
「オバケでも何でも僕が退治してやるよ!」
イサムは得意げに、その場で両手を拳にして構え、素早い突きを何度か放った。
「ははは、期待しているよ」
先頭を歩きながらこちらを後ろを振り返っている岩田の笑みが、若干引きつっているように見える。イサムの自信ありげな態度に苦笑しているのだろう。
晴彦も、やりきれない気持ちでイサムを眺めていた。その視界の隅に――。
何かの建物が映った。
木造の、古びた建物だ。しかしコテージではなさそうだった。大きさとしても人が泊まれるほどではなさそうだし、第一ぼろい。壁板が剥がれているところもあるし、一部は腐ってもいるようだ。
それでも無理やり入ろうと思えば苦労するだろう。それほどまでに朽ちてはいない。と思ったけれど――。
出入り口の扉が開いていた。中が丸見えになるほどではないが、中に詰め込まれているもの――あれはおそらく薪だろうか――が少しだけはみ出している。物置小屋だろうか――と晴彦が思った時、
「さあ、着きましたよ」
と、先頭を歩いていた岩田の明るい声がした。晴彦は小屋から目を離して前方を見た。あたりに気を配りながら歩いていたせいで気づかなかったが、いつの間にか一同はコテージの前へ到着していたようだ。
「凄おい」
詩織が感嘆の声を上げている。都会で生まれて都会で育ち、いつもメカニックに関わってきた青髪の少女にとっては、自然の世界の中にあるものは新鮮に思えるのかもしれない。晴彦も同様だった。目の前に見えるコテージは、とても幻想的に見えた。
ひとかかえほどもある大きな丸太を組み合わせて作られたその建物は、まるで童話の世界に出てくるかのような雰囲気を醸し出している。外見から察するに、中は八畳くらいの広さはあるだろう。晴彦たちは四人だから、充分な広さと言える。
「このコテージだけは、みんなが泊まれるように、ほかのコテージよりも入念に掃除しておいたんだよ」
と岩田が言った。了雲から絶賛されるほど気の利く岩田が掃除したのなら、中はさぞかし綺麗になっていることだろう。
「幽霊の調査の拠点として、ここを使ってくれるとありがたいね。あとは、お願いしたよ」
「ありがとうございます」
梨奈が岩田の方を向いて、緑色のパーカーを着込んだ上半身を綺麗に折り曲げて一礼した。
「あとで、みんなの分の寝袋を持ってくるからね」
岩田が言った。
「大丈夫だよ」
イサムが自慢げに口の片端を釣りあげる。
「寝袋は僕が持ってきたからね」
イサムはちょっと振り返って、自分の背負っているリュックへ視線をやった。
「そう?-」
岩田は少し残念そうな顔をした。
「じゃあ、非常用のランタンを持ってくるよ」
「それも大丈夫なのです」
自慢げにそういったのは、詩織だった。詩織はちょっと肩をあげて、リュックの位置を修正する。
「ランタンは私が持ってきたのです」
「ああ、そうなんだ」
岩田の表情から、さらに元気がなくなる。
「それじゃあ、机と椅子を持ってくるよ。食事は外でした方がキャンプっぽさを感じられると思うから」
「それも大丈夫です!」
今度は梨奈が言った。リュックのショルダーベルトを引っ張り、背中の荷物を強調する。
「私が持ってきましたから」
釣り目がちの目が、いたずらっぽく輝いている。
「ああ、そうなんだね」
岩田は、もう萎れきっていた。肩が丸くなっている。自分の好意が悉く無駄になっているのだから、その気持ちも分からないではない。
「岩田さん、それでもお気遣いありがとうございました。嬉しく思います」
最後に晴彦が、岩田に頭をさげた。
「いやあ、準備万端なんてさすが優秀な探偵さんたちだよ」
頼りにしているよ、と岩田は言って――たぶん無理に――笑みを浮かべた。
「それじゃあ、調査の方よろしくね」
そう言って、岩田は手を振りながらコテージから去っていった。
一陣の風が吹いた。
砂埃が舞う。
「痛いッ」
と梨奈が小さく叫んだ。両手で顔を覆う。
「どうした」
晴彦が訊くと、梨奈は目を擦りながら、
「大丈夫、砂が目に入っただけだから」
と言って涙をこぼした。目が若干赤くなっているようだ。
梨奈は目が大きいから、その分誇りも付着しやすいのかもしれない。
「大丈夫かい、梨奈ちゃん」
イサムが、切れ長の目に優しい光を宿して梨奈を見ている。同時に、そっと差し出した手にはハンカチが握られていた。これで涙を拭けということだろう。
梨奈は晴彦の幼馴染であり、現在の恋人である。イサムもそれは知っているはずだ。なのに、公然とこういうことをやるから晴彦としては面白くない。と言っても、イサムには他人の恋人を横取りしようとか、そういう下心がないことは晴彦も理解している。イサムはちょっとだけ、人よりも女性に対する愛情が深いだけなのだ。
梨奈は、手のひらをイサムに向けて、目を瞬かせながら、
「大丈夫、ありがとう」
と言って、ハンカチを断った。
「そうかい。目は大切にするんだよ」
とイサムは爽やか笑みを浮かべながら、ハンカチをしまった。
ちょっとの風であれだけ砂が舞うのだから、地面は硬いのだろう。晴彦はあらためて地面を足で踏んで確かめてみる。弾力のない地面が、晴彦の足の裏に、踏んだ時の衝撃をそのまま跳ね返してきた。たしかに硬い。足跡も深くはつかない。そして、晴彦たちが歩いた以外の足跡はいっさいなかった。地面には凹凸ひとつない。きっと、あの気遣いの天才である岩田が整備したのだろう。そして、晴彦たちの足跡以外の凹凸がないということは、ほかに客はまったくいないということだろう。
――もし幽霊が出たら。
晴彦は考える。外部犯などではなく、現在このキャンプ場にいる誰かが犯人だということになる。もしくは――。
本物の幽霊か――。
まさかな、と晴彦は、一瞬だけでもそんなことを考えた自分を笑った。
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