とても邪魔だった。
コテージの中は広い。外観から予想したように、広さ八畳ほどはあった。
でも、そのうちの、たぶん二畳ほどの広さを、大きな機械が占めている。他にも、部屋の中央には小さいながらも円卓が置かれているし、部屋の両側は、壁に張り付くように二段ベッドが設えられている。
だから、自由に使える空間は、実質六畳くらいだ。さらに、そのうちの二畳分ほどを機会が占めているから、もう四畳分くらいしか自由でいられる場所はない。そこへ四人だから、もう狭くて仕方がない。
機械を設置したのは、メカニック担当の詩織だった。リュックの中から次々と部品を取り出しては、それをまったく迷うことなく、流暢に組み立て始め、ほんの十分ほどで完成させてしまったのだ。
「なんだよ、これ」
と尋ねる晴彦に、詩織は眼鏡を人差し指で押しあげながら、堂々とこう宣言したのだった。
「『キューティー心霊激写装置☆ハッ撮リくん』なのです」
見た目の大まかな形は、普通のカメラと変わらない。三脚に、カメラが取り付けられているだけだ。ただ、普通のカメラとは違うところもあった。まず、三脚に取り付けられているのがカメラだけではないということだ。三脚からは、まるで枝が張り出すような形でいくつかの鉄の固定具が伸びている。全部で三本だ。それぞれの枝の先には、ひとつずつ、また別の機械が取り付けられている。いずれもレンズのようなものが付いているから、何かを感知するためのものなのだろう。よく分からないその機械を指さして、
「これはなんだ」
と晴彦は訊いた。すると詩織は、機械をひとつひとつ指さしながら説明した。
「これは熱を感知するセンサーなのです。そしてこれが、動くものを感知するセンサー。そしてこれは、顔認証機能専用のセンサーなのです」
「顔認証機能?-」
「そうなのです」
詩織は丸眼鏡の弦を指でつまんで、晴彦の顔に視線を合わせた。円い瞳に、知性が輝いている。
「熱を持つものと、飛ぶものだけなら、たとえば鳥でも虫でも感知してしまうのです。しかし今回撮影しなくてはならないのは――」
幽霊なのです――と詩織は言って、顔の前で人差し指を真っ直ぐに立てた。そして、私も幽霊なんて信じたくないのですが、任務だから仕方がないのです、と前置きをしてから説明を続けた。
「飛ぶもの、熱を持っているもの、そして人間の顔を持つもの、この三つの特徴を持つものをとりあえず幽霊と定義してこの装置を作ってみたのです」
「さすが詩織、すごい!」
梨奈が胸の前で手を合わせて釣り目を大きく開いている。詩織の知恵に感心しているらしい。
「つまり、こういうことだね」
イサムが脇から割り込んできた。
「飛ぶもの、熱のあるものだけだと、鳥や虫まで感知してしまう。そして人間の顔だけだと人間を感知してしまう。でも、それら3つの条件をすべて満たしているものといえば幽霊だけだ。だからその条件を満たしていれば、それを幽霊と判断して撮影する」
「その通りなのです。その三つの特徴すべてを持つ対象が現れたら、自動でシャッターが降りる仕組みなのです」
詩織は不機嫌そうに目を薄めてイサムを見た。実に幽霊存在論争の論敵であるイサムは、いまだ敵意を持たれているようだ。しかしイサムはといえば、もうすっかりそんなことは忘れているらしい。
「すごいよ詩織ちゃん。それなら幽霊が現れたら完璧に撮影することができるね」
ぐ、とイサムは親指を立てる。詩織はわずかに口をへの字に曲げた。喧嘩相手に褒められたことに、複雑な気持ちを抱いているのだろう。
――それにしても。
晴彦はあらためてカメラを眺める。
三脚にしろカメラにしろ、三つのセンサーにしろ、ものすごい意匠だと思う。まず、すべてがピンク色をしている。そして、そこここにハートマークだの星だのの飾りが散りばめられている。詩織のことだから、きっと性能は抜群なのに違いない。幽霊が実在するかどうかはともかく、詩織の示した「飛ぶ」「熱を持つ」「人の顔を持つ」の三つの特徴を持つものが現れたら、まず間違いなく逃さないだろう。でも、少なくとも「キュート」である必要はまったくないと晴彦は思う。そして、おそらくこの「キュート」な意匠をなくせば、大きさも三分の一くらいで済むのではないか、という気がしてならない。ならないけれども――。
「晴彦くん、どう思うのですか」
と詩織に目をきらきらさせながら言われると、率直には答えられなかった。
「個性的でいいんじゃないかな」
と晴彦は無理に笑いながら言葉を濁した。さて――。
――あとは待つだけだ。
捜査も何も、まずは幽霊が現れなくては話にならない。情報が少なすぎるのだ。今のままでは推理も捜査もままならない。
しかし、幽霊が現れるまでの時間も無駄にしたくない。どうしようか、とみんなに相談しようとした矢先だった。
「忘れるところだったのです」
詩織がはっと顔を上に向けて叫んだ。
「どうした」
晴彦が尋ねると、詩織はまたリュックの中を漁りながら、
「まだこれがあったのです」
と言って、ひと抱えほどもあるものを取り出した。
「何それ」
梨奈が頓狂な声をあげた。イサムも驚いているのか、口を半開きにしたまま、大きいねえ、などと呟いている。
「ふっふっふ」
そ詩織は不敵に笑った。眼鏡が怪しく光る。
「これは――」
詩織はそのひと抱えほどもあるものを、両手で頭上にかかげて、ふたたび宣言した。
「『超強力粘着のり☆くっつ君』なのです!」
詩織の頭上には、巨大なチューブが掲げられている。やはりピンク色で、ハートの柄が散りばめられている。そして丸文字で「くっつ君」の文字がプリントされていた。
「それは、なに」
尋ねた梨奈の頬が、ひくひくと痙攣している。
「のりなのです」
と詩織は身を乗り出して答えた。
「うん、それはわかる」
「何に使うのか訊いてるんだよ」
と晴彦は、梨奈の質問を補った。
「何を言っているのですか」
詩織は青いツインテールを揺らしながら、首を後ろにさげた。
「今回の目的は幽霊騒動の原因究明なのです。忘れているのではないのですか。しっかりするのです」
「いや、忘れてないし、しっかりもしているつもりだ」
少なくともキャンプを満喫する気満々で、ランタンだの折りたたみテントだのを準備してきた詩織には言われたくない言葉だった。
「その、幽霊騒動の原因究明のために、どうやってそののりを使うんだ」
晴彦はさらに質問を具体的にしてみた。
「わからないのですか」
晴彦くんは駄目なのですねえ、と詩織は得意げに言いながら、目を閉じて澄まし顔をつくり、人差し指を立てて横に振った。
「こののりを、今私たちがいるこのコテージのまわりに、散布しておくのです」
「それで?-」
「そうすれば、幽霊が足を取られて動けなくなり、引っ捕えることができる、という寸法なのです」
「・・・・・」
単純すぎる。それではまるで、コントに出てくる泥棒のようだ。そう言うと、
「私はそうは思わないのです」
と詩織は真顔で言った。
「晴彦くんこそどうにかしているのではないのですか」
「どうにかって」
「いいですか」
詩織はその丸い顔を、ぐいと晴彦に近づけた。晴彦は反対に顔を引いて距離をとる。
「私はずっと、幽霊などいないと主張してるのです」
「それは分かってるけど」
「いいや、分かってないのです。幽霊がいないならば、その正体は何なのか。おのずと確定できるというものではないですか。つまり――」
人間なのです――と詩織はきっぱりと断言した。
「そうかな」
疑問を口にしたのは、梨奈だった。首を傾げ、細く整った眉を八の字に歪めている。
「人間ではない何かを、幽霊と勘違いしている可能性だってあると思うんだけど」
詩織は梨奈の方を向いて、私もその可能性は否定できないのです、と言った。
「それでも、心霊スポットとして紹介されるくらいの〝もの〟が見られるということは、きっと人間なのです。実は、私も調べてみたのです」
「調べたって、何をだい」
イサムが興味深そうに詩織に尋ねる。噂なのです、と詩織はその質問に答えた。
「ネット上で噂になっているというから、私も検索してみたのです。この大咲山キャンプ場の名前を。そうしたら――」
たくさんヒットしたのです、と詩織は言った。
「どんな幽霊が出るのか、という具体的な証言がいくつもあったのです。それによると――」
詩織は視線を上に向け、その証言とやらを暗唱しはじめた。
「〝目がただれていた〟〝頭皮がはがれいた〟〝口から血を流していた〟――少なくともこれだけの証言があったのです」
「でも、それも人間以外のものを見間違えている可能性だって、あるんじゃないの」
梨奈は自説を曲げない。しかし詩織もまた、その程度では折れなかった。それはないのです、と再びきっぱりと言い切った。
「もちろん、梨奈の言う可能性が、百パーセントないとは言いきれないのです。でも、よく考えてみてほしいのです。私がさっき言った証言には、どれにも――」
人体の部位の名称が含まれているのです――と詩織は眉間に皺を寄せて言った。
晴彦は、さっき詩織が話した証言を頭の中で復唱してみた。
目がただれていた――。
頭皮がはがれいた――。
口から血を流していた――。
目。頭皮。口。
確かに、いずれも人体の部位を指す言葉だ。
「なるほど」
晴彦は納得した。
「つまり、詩織はこう言いたいわけだね。ひとつの証言だけならいざ知らず、少なくとも三つ以上の証言すべてに、人体の部位を指す言葉含まれている――ということは、つまり、人間以外のものを見間違えている可能性は極めて低い――」
「その通りなのです!」
我が意を得たりとばかりに詩織が即答した。そういえば了雲もそのようなことを言っていたような気もする。
頬に火傷の痕があったように思うな――。
やはり人体の部位を表す言葉を口にしていた。
「納得できたのですか」
うん、と梨奈が頷き、了解、とイサムが答えた。
「ならば、もう分かるはずなのです。この使い道が」
詩織はそう言って、脇に置いた巨大なのりのチューブを手のひらでぽんぽんと叩いた。
「幽霊の正体は人間なのです。幽霊が現れたら、それは人間が現れたということなのです。そして人間が現れたら、こののりで捕まえることができるかもしれないのです」
一同は黙ってしまった。イサムは眉間に指をあて、詩織は顎を人差し指の先で揉んでいる。晴彦は腕組みをしていた。
きっとみんな、詩織の策のどこかに穴をみつけようとしていたのだろう。少なくとも晴彦はそのつもりで黙ったのだ。
あら捜しをするためではない。その策の実用性と、実行した場合の留意点を探るための、前向きな検討のためだ。
しばらく沈黙が続いたが、結局異論は出なかった。ただ、
「もしそののりで捕まえるなら――」
「くっつ君なのです」
晴彦の言葉を遮って、詩織がすかさず訂正した。晴彦は話の腰を折られて、ああと息をつき、そして言い直した。
「その、くっつ君で捕まえるなら、このカメラはいらないんじゃないか」
正直、ものすごく邪魔だ。しかし、詩織は言い張った。
「とんでもないのです。いくらこのくっつ君が強力で完璧なのりだとしても、踏んでもらえなくては意味がないのです」
ものすごく当たり前のことだった。
「だったら、必ず踏んでもらえるくらい、広く散布しておけばいいんじゃないかな」
とイサムが発議した。馬鹿なのですね、と詩織はすかさず指摘する。
「そんなにこののりを撒いたら、私たちがこのコテージから出入りできなくなるのです」
「それもそうか」
イサムは馬鹿呼ばわりされたのを気にするでもなく、いとも簡単に納得した。晴彦にはわかる。イサムは本当に気にしていないのだ。決して気にしていないふりをしているわけではない。そういう性分なのだ。
「さて、納得したら、さっそく、くっつ君を撒きに出るのです!」
詩織の力強い提案に、反対する者はいなかった。
※
ひと苦労だった。
詩織の開発したのり――くっつ君――はとても強力なのりで、しかも市販の瞬間接着剤よりも早く固まった。だからまず皮膚につかないようにしなくてはいけなかったし、コテージを一週するするように撒くには分量も多く必要だったので、時間がかかった。何より重労働だった。
みんなまだ十代だというのに、イサムなどは腰痛を訴えてすでに二段ベッドの下段にうつ伏せになって伸びている。これでも王家の血を引く末裔なのだ。詩織は小柄な体格ながらまだ余力があるらしく、カメラ――キューティー心霊激写装置☆ハッ撮リくん――の調子を丹念に点検している。そして多少の調整をしたあと、
「これでよし」
と言って、ようやく床に座った。テニススカートから伸びる細くて白い足を前方へ伸ばして、後ろへ両手をつく。
もうやることがない。あとは待つしかないのか。それでも事件を解決しなくてはならない、という探偵としての気持ちが晴彦を焦らせる。
「ところで」
ふとした様子で、梨奈が疑問を口にした。梨奈は円卓の脇に正座をして、水を飲んでいる。長い茶髪は、汗でぺったりとしている。顔にも薄らと汗が浮いているようだ。白い肌が、桃色に染まっている。暑いのだろう。しかし、息ひとつ乱さずに、梨奈は言った。
「ずっと気になってたんだけど、イサムくんはどんなオバケを見たっていうの」
そういえば、それは晴彦も気になっていた。ずっとオバケを見たオバケを見たと主張していたが、いったい具体的には何を見たというのだろう。
梨奈の質問に、イサムはベッドにうつ伏せになったまま、ああ、といかにも気だるいといった様子の、呻き声のようなものをあげた。振り向きもせず、枕に顔を埋めたまま唸ったので、声はくぐもっていた。茶色のマッシュヘアも、汗にまみれて膨らみを失っている。
「どんなって」
イサムはうつ伏せの体勢のまま、ようやく顔だけを横に向けて、視線を梨奈に向けた。髪が、汗で頬に貼り付いている。
「怖いオバケだよ」
とイサムは答えた。まるで子供のような答えだ、と晴彦は思った。
「子供みたいなこと言わないで」
と梨奈は言った。晴彦は自分の気持ちを代弁してもらったような気分になった。
「どんなって言われてもねえ」
イサムは顔の向きを変え、うつ伏せのまま枕を抱えて、顎を枕に埋め、ぼんやりとした目で前方を眺めた。
「夜道を歩いていたんだよ。そうしたら――」
なんでも、その日はアルバイトが長引いて、いつもなら夕方に終わるものが、夜になってしまったのだという。
「夜の八時くらいだったかな」
寮に帰ろうと夜道を歩いていると、ふいに――。
「袖を引かれたんだよね」
とイサムは言った。
「袖?-」
梨奈が訊く。うん、とイサムは枕に顎を枕に埋めたまま頷く。
「いきなり袖なんか引っ張られたらびっくりするだろ。僕もびっくりしたわけだよ。それで振り向いたらね」
誰もいなかったんだ――とイサムは言った。
なんとなく、誰も喋らなくなった。沈黙がコテージの室内に満ちる。
「それで?-」
ぽつりと沈黙を破ったのは、詩織だった。
足を伸ばしたまま、本来は丸い瞳を半開きにして、うつ伏せのイサムを見つめている。
「それでって――」
それで終わりだよ、とイサムは言った。
「終わり?-」
はは、と詩織が抑え気味に笑った。そして、
「あはははは」
とせっかく抑えた笑いを盛大に噴き出して、後ろに倒れ込んだ。
「オバケを見たっていうからどんなにすごい体験かと思ったら、ただ袖を引っ張られただけなのですか」
あははは、と詩織は、仰向けに寝転がったままばたばたと足で床をたたく。白いテニススカートの中が見えてしまうのをためらう様子はまったくない。事実、見えなかった。といっても、晴彦はそれを期待して詩織を見ていたわけではないが。
「そんなに笑わなくったっていいだろう」
イサムが両手をベッドについて上半身をわずがにあげた。が、
「痛ててて」
と言って、起こした上半身をまた寝そべらせる。腰痛が相当に堪えているようだ。
「それ、どこで体験した話なの」
梨奈が素朴に訊いた。
「あれはねえ、ほら、隣町のショッピングモールだよ」
「いつごろ?-」
「先月だったかな」
「先月?-」
梨奈は首を傾げる。
「どうしたんだい」
イサムは首だけ捻って梨奈を見た。
「いや、そのショッピングモールって、営業を始めたのは今月に入ってからだよね」
先月はまだ工事中じゃなかったかな、と梨奈は口をすぼめて天井を見あげる。
「そうだったかな。よく覚えてないけど、でもその場所なんだ」
痛ててて、とイサムは片手で腰をさする。
「まったく情けないのです、男のくせに」
笑い転げていた詩織がいつの間にか起き上がっていて、眼鏡の奥の瞳をいたずらっぽく輝かせながらイサムに言った。
「そういうきみは、女の子のくせにずいぶん溌剌としているじゃないか」
イサムも負けじとやり返す。
「発明家に体力は不可欠なのです」
座ったままの姿勢で、詩織は両手を腰に当てた。
「まあ、とにかくさ、これからどうしよう」
と晴彦は話題をかえた。このままこうしていても仕方がなかったからだ。そして結局――。
※
これから何をするべきなのか話し合った結果――。
「また私が一番なのです!」
詩織が嬉しそうに、両腕をめいっぱい突き上げる。
話し合った結果、一同は神経衰弱を始めたのだった。詩織の意見だった。幽霊を探しに行くと言っても、そんな正体の掴めないものは探しようがない、という詩織の意見に、誰も反対意見を出せなかったからだ。確かに、まず幽霊とは何か、という定義づけが難しい。下手をすれば壮大な宗教論にもなりかねない。
だから幽霊探しはとりあえず中止になったのだが、代案として神経衰弱が採用されたことが晴彦は解せないでいる。
「詩織は記憶力がいいんだね」
と梨奈が釣り目を三日月型に細めて詩織を褒めた。梨奈は僅かしか札を取っていない。四人の中ではもっとも少ない獲得数だが、梨奈はその悔しさよりも、優勝した詩織を賞賛する気持ちの方がまさっているらしい。
「詩織ちゃんにはかなわないなあ」
とイサムも、汗で膨らみを失った茶色のマッシュヘアを片手でぐしぐしと掻きながら詩織に賛辞を送る。腰痛のイサムが寝そべったまま参加できるように、晴彦たちはベッドの近くで円く座っている。イサムはうつ伏せに寝そべったまま、ベッドから手だけを伸ばして参加していた。
「参ったら、幽霊などいないことを認めるのです」
ふふふふ、と詩織は得意げに笑う。
「そ、それは関係ないだろう」
イサムがすかさず反論した。
「あのさ、こんなことやってる場合じゃないだろ」
盛り上がる三人をたしなめる気持ちで、晴彦は釘を指した。
「もうずっと言ってるけど、俺たちは探偵としての仕事をするためにここへ来てるんだ。神経衰弱で盛りあがってる場合じゃないって」
すると、晴彦以外の三人が、急に黙って顔を顰めた。そして冷たい視線を晴彦に送ってくる。
「な、なんだよ」
晴彦は三人からの視線に体を突き刺されたような気分になり、体をこわばらせた。梨奈が冷たく言う。
「このトランプ持ってきたのって、晴彦でしょ」
「そ、そうだけど――」
「しかも晴彦くんは、私の次にたくさんカードを取っているのです。準優勝なのです」
と詩織も低い声で言う。
「勝負するなら負けたくないと思っただけで――」
「結局は晴彦がいちばん神経を衰弱させていたんじゃないかい」
最後に言ったのはイサムだった。
「い、いや――」
一気に気まずくなった。
晴彦は人差し指でこめかみを掻きながら、言葉をつまらせながら言う。
「トランプを持ってきたのは、あくまで休み時間に暇を潰そうと思っただけで、まだやることはありそうだし、それに一度始めたら、勝負なんだから勝ちたくなるのは当たり前だろ」
「それなら始める前に注意すればいいだけの話なのです」
詩織がぼそっと言った。声こそ張りがなかったものの、そのひと言は核心をついていた。晴彦は誤魔化し笑いをするしかなかった。
あはは、と乾いた笑いを漏らす。そして、さてどうやってこの空気を変えようかと晴彦が悩み始めた時だった。
さあ――と音がした。
外からだった。
窓に目をやる。
ガラス窓に、点々と細かい水滴が付いていた。
「おや、雨だねえ」
とイサムが言った。計らずも気まずさがなくなり、晴彦はとりあえず安堵する。
「これじゃ、外を捜索するのは難しいね」
と梨奈が言った。汗でぺったりとしていた梨奈の茶色い長髪は、いつの間にか乾いていた。ただ、汗がこびりついているせいか、今度はいつもの艶やかさが失われている。
詩織が腕を組み、ううんと難しそうに唸った。そして、
「こうなっては――」
もう一回戦やるしかないのです、と言った。
「どうしてそうなるんだよ」
晴彦は思わず突っ込む。結局――。
※
「これならまた私が優勝をいただくことになりそうなのです」
もう一戦神経衰弱をやることになったのだった。
相変わらず詩織は絶好調だった。場に出ている札の半分以上を自分のものにしている。四人で対戦していて半分取っているのだから、もう詩織の優勝には違いないのに、まだ取るつもりでいるようだ。
「あ! それはさっきも出たのです!」
イサムがひっくり返した札を見て、詩織が歓喜の声をあげた。イサムはしぶしぶといった様子で札を裏に戻す。
「さあ、いただくのです!」
詩織が今とばかりに腕を伸ばす。その指先が札に触れたその時だった。
「ぎゃッ」
と声がした。悲鳴と言うべきか。とにかく異質な声がした。
四人は顔をあげて、顔を見合わせた。
「今の声、なに」
詩織が不安そうに訊いた。青いツインテールが揺れている。体全体が小刻みに震えているようだ。
晴彦は黙って立ち上がった。そして仲間と、仲間の荷物を避けながら、ゆっくりとコテージの出口へ向かった。
誰も何も言わない。沈黙が満ちている。誰かの唾を飲む音さえ聞こえてきそうな沈黙だ。
さあ、さあ、と雨の音が響く。
晴彦は入口のドアの取っ手を握った。
取っ手を捻り、押す。
ドアが開いた。雨の湿気が、コテージ内に入り込んでくる。外は、霧のような細かい雨に煙っていた。
晴彦は外を眺めまわした。そして、
「あ!」
思わず声を漏らした。外に――。
人が倒れていたのだ。
背の高い男だ。
「岩田さん!」
晴彦は男の名を呼んだ。岩田を助けようと晴彦は足り出そうとしたが、一歩コテージから踏み出したところで足を止めた。岩田が、自分で立ち上がったからだ。
「これ、何」
岩田が困惑したような甲高い声で叫んだ。
岩田は右足を地面についたまま、左足を前に出し、体を前へ傾けてうんうん唸っている。
「何やってるんですか」
晴彦が訊ねると、岩田は苦しそうな声で、
「足が、地面から離れない!」
と答えた。
「ああ、それは・・・・・・」
『超強力粘着のり☆くっつ君』だ。幽霊を――いや、幽霊のふりをやっている犯人を捕まえるために、みんなでコテージの周りに撒いた、詩織特性の強力のりだ。
雨が降っているのにまだ効力が衰えないということは、よほど効き目が強いらしい。そんなことを晴彦が考えている間に、岩田はようやく右足を地面から剥がした。その勢いで、前へ二三歩よろめく。
「これ、なんなの」
と岩田は訊いた。
「なんでもないです」
と晴彦は答えた。
「それより、そこにいたら雨に濡れてしまいますよ」
「ああ、そうだね」
「どうしたんですか」
「実は、ちょっときみたちのコテージに用があってね」
岩田はそう言って、晴彦の方へ近寄ってくると、コテージの中へ入ってきた。
「ごめんね。ちょっと失礼するよ」
ごめんね、と岩田はもう一度言い、靴のまま入ってきた。床は板張りで、靴を脱いであがる種類のものではない。実際、晴彦たちも靴を履いたままだ。
「お疲れさまなのです」
「雨の中、大変ですね」
詩織と梨奈が、それぞれ岩田を労った。イサムは枕に顔を埋めたまま何も言わない。よっぽど疲れているのだろう。
「どうしたんですか」
と晴彦が訊ねると、
「ごめんね。きみたちを迎えるのにこのコテージを掃除した時に、ここに忘れ物をしてしまったみたいなんだ」
「忘れもの、なのですか」
詩織が首をかしげた。
うん、と岩田は部屋の中を進みながら頷く。
「事務所の天井が雨漏りしてしまってね。応急処置としてシートを屋根に張らなきゃいけない。だからシートを取りに物置小屋へ行こうと思ったんだけど鍵がなくて、もしかしたらここに置き忘れたかなと思ってね」
岩田は、部屋の奥にある乙女心満載の撮影機を避け、その向こうの壁にかかっている小物入れのような小さな箱の中をのぞきこんだ。
「ああ、あったあった」
岩田は箱の中に手を入れて、中から鍵を取り出したらしく、それを手に握って、
「邪魔してごめんね。トランプやってたの」
とにこやかに訊ねてきた。顔を横断する大きな傷が気になるが、そのにこやかな笑みと気遣いの細やかさから、彼の人柄はいいものだということを理解しているから、もはや嫌悪感は感じない。
床には、裏返しのままのトランプが無規則に散らばっている。
遊びに興じていたことがなんとなく恥ずかしくなって、晴彦は自分の赤い髪を掻いた。
「まあ、とにかくお願いね」
晴彦の返事を待たずに、早々にコテージから去っていった。まあ、雨漏りがしているというのなら、急がなくてはいけないだろう。
「さて、続きをやるのです!」
と詩織が言った。二の腕を握りしめているあたりを見ると、どうやらやる気満々らしい。
※
もう外は暗くなっていた。まだ夕方だから完全な闇ではない。青みを帯びた薄い闇が景色を覆っている。木や、ほかのコテージは、もう黒い陰になっている。このコテージの中も暗いくていけないということで、詩織は自分の持ってきたランタンに火を入れた。コテージの中は、橙色のぼんやりとした光に満ちている。しかし光が弱いため、部屋の隅までは届かない。
部屋の角には、真っ黒な闇がこびりついている。
「また私が勝ってしまったのです」
と詩織が言った。圧倒的枚数を詩織は獲得している。
「あれ、おかしいな」
イサムが訝しげな声をあげた。
「どうしたの」
と梨奈が振り返る。
「一枚余ってる」
「え」
詩織もイサムの方を振り返る。イサムは指の先でトランプを一枚つまんでいた。
「クローバーのキング」
イサムはそう言って、指先のカードをひっくり返して見せた。晴彦も詩織も梨奈も辺りを見渡したが、余っているカードは見当たらなかった。
「もしかして幽霊の仕業かな」
あはは、とイサムが笑う。
「冗談じゃないのです」
そう言った詩織の顔は、妙にこわばっていた。丸い顔の頬が、ひくひくと引きつっている。
※
結局トランプの余り一枚は見つからないまま、いよいよ本格的な夜がやってきた。外を眺めるためにあるはずの窓ガラスは、すでにその役割を果たしていなかった。外が透けて見えるどころか、ガラスは鏡となっており、室内を鮮明に映し出している。
すでにトランプをやる気は失せていた。ここまで長い間車に揺られて来たことや、何より大量ののりを撒いたのが、みんなの体力を奪ったのだろう。イサムを除いた三人は、卓袱台を囲んで座り込んだまま、ひと言も話さなかった。雨の音だけが、さあさあと響いている。真夏だというのに、どこか寒さを感じる不思議な雰囲気だった。
イサムは仰向けになって、すでに眠りに落ちていた。整った顔は眠っていても様になっている。
なんとなくため息をついた。晴彦に連れられてか、詩織も息をついた。
さあ、さあ、と雨の音が染み渡る。
さあ、さあ、さあ、さあ。
さあ、さあ、さあ。
さあ、さあ。
ことり。
――何だ。
何か奇妙な音がした。さざめくような雨の音に混じって、固いものがぶつかり合うような音だった。
ことり。
また音がした。あきらかに異質な音だ。
「なんだろう」
晴彦はつぶやいた。その声に、すでに下を向いてうつらうつらと船を漕いでいた詩織が目を覚ましたらしい。ん、と声を漏らし、眼鏡を上へずらして、人差し指で目をこする。眠気のせいだろう。その瞳には涙が浮いていた。
「どうしたのですか」
と詩織があくび混じりに言った。
んん、と梨奈も唸った。梨奈もまた、眠そうに目をこすっている。
「いや、なんか音がして」
と言いながら、晴彦はあたりを眺めまわした。とくにものが動いたような様子はない。
ひと通り室内を見渡してから、最後に晴彦は窓へ目をやった。ガラスが鏡となって、室内の様子を映している。
「気のせいかな」
窓の方を見ていた晴彦は首を戻して体勢を戻そうとした。その瞬間。
ゆらり。
何かが見えた。ガラスは鏡になっているから、外の様子は明瞭には見えない。しかし、ガラスに写っているのは、天井を含めて部屋の中の上半分だけだ。もちろん視点が変われば映る対象も変わるのだろうが、今床に座っている晴彦の視点から見えるのは、その範囲だけでしかない。部屋の下半分にいる晴彦たちの姿は、そこには映っていない。にも関わらず――。
何かが動いた。鏡と化したガラスに、何か動くものが映ったのだ。ただ、室内の情景と被さってよく見えない。
晴彦は目を凝らした。と、同時だった。
「きゃああああああああッ」
絶叫が晴彦の耳をつん裂いた。びりびりと鼓膜が震える。
「なんだ!」
晴彦はびくりと詩織の方へ顔を向けた。
「どうしたの!」
梨奈も驚いたせいか、大きな声を出して詩織を見つめている。
「どうしたんだい!」
眠っていたイサムは声に反応して目を覚まし、上半身を一気に起こしたが、そのせいで額を二段ベッドの上の段にぶつけたらしい。
「いで!」
と叫んで額を抑えている。
「どうしたんだ、詩織」
あらためて、晴彦は詩織に尋ねた。
詩織は窓の方を見あげて、小刻みに震えている。きっと叫んだ拍子に大きく体を動かしたのだろう。眼鏡が傾いている。しかし詩織はそれを直そうともせず、円い瞳を見開いて、窓の方を凝視している。そして、
「ゆ、ゆ」
と小さな声で何か呟いている。
晴彦は詩織の視線を追って、自分も窓の方を見やった。
ガラスに映る室内。その映像に混じって――。
異質なものが見えた。
白い、丸みのあるものだった。
「う」
思わず声を飲み込んだ。窓に映るそれが、顔だとわかったからだ。だらしなく半開きにされた口。その端からは赤い筋が一本下へ伸びている。血を流しているのだろう。片目のまぶたが僅かにただれており、頭皮もいくらか剥がれているようだ。
「いやああああああッ」
「きゃああああああッ」
詩織と梨奈は、膝立ちになると卓袱台越しに抱き合って、そのまま部屋の奥へ向かって、もがくように後ずさった。晴彦も叫び出したい気分だったが、女性の手前あからさまに驚くこともできず、もう固まるしかなかった。その生気のない白い顔は、怖いというよりも、なんとなく忌々しかった。
ぱしゃり。
機械音がした。どうやら、詩織の制作したカメラが作動したらしい。
顔が消えたのは、ほとんどそれと同時だった。顔は窓ガラスから横にそれて、すぐに見えなくなった。
しかし見えなくなってからも、まだ心は落ち着かなかった。あの無表情な白い顔は、晴彦の心胆を寒からしめて余りあるものがある。梨奈が悲鳴をあげるのも無理はないだろう。だが――。
「詩織」
晴彦は固くなった体をなんとか動かして、詩織の方へ体の向きを変えた。
「な、何なのですか」
「なんでお前が驚いてんだよ」
「なんでって――」
「幽霊はいないって言ってたじゃないか」
「そ、そそ、そんなこと言ったって」
詩織は晴彦の目を見ると、肩を怒らせて大声を張りあげた。
「ここここ怖いものは怖いのです!」
「えェェ・・・・・・」
まったく理屈が立っていない。まるっきり感情論だ。イサムと言い争っていたのは何だったんだという気にもなる。
梨奈は悲壮なまでに固くなっていた。イサムがいない方の二段ベッドに寄り付いて、膝を抱えて丸くなっている。
「怖いよ」
と梨奈が小さな声で言った。その直後に洟を啜る音が聞こえた。どうやら梨奈は泣いているらしい。
「大丈夫か、梨奈」
晴彦が声をかけるが、梨奈は顔をあげなかった。
「オバケが出たのかい」
やっと痛みがおさまったのか、イサムがようやく顔をあげて晴彦に訊いた。それでもまだ頭のてっぺんを片手でさすっている。呑気なものだ。
「出たさ」
と晴彦は言った。自分だけならまだしも、詩織も梨奈も見たというのだ。見間違いという線はまずないだろう。
「そうだ」
次に声をあげたのは、詩織だった。
「幽霊が見えた時、確かにシャッター音が聞こえたのです。きっと何か写っているはずなのです」
そう言えばそうだ。たしかに機械音を晴彦も聞いた。
詩織は素早く立ち上がると、カメラに歩み寄った。そして、三脚からカメラを取り外すとそれを卓袱台の上に置いた。
あんなに絶叫していたというのに、もう立ち直ったというのだろうか。さすがに科学の申し子だ。
詩織が卓袱台の上でカメラを弄り始めると、イサムが興味津々といった様子でベッドから這い出してきた。
「もう腰は大丈夫なのですか」
詩織はカメラから目を離さずにそう訊ねた。
「いやあ、大丈夫じゃないけど、それが面白そうだから見学見学」
イサムは四つん這いになって卓袱台の縁まで這って来ると、カメラを覗き込む。今にも詩織と額がぶつかりそうだ。
「フィルムを出して大丈夫なのか。感光するぞ」
晴彦が言うと、詩織は、甘いのです、と言って顔をあげた。目を瞑り、また例の得意げな顔つきをしている。
「このカメラは、現像してプリントアウトするところまで自動でやってくれるのです」
「それはすごい」
と言ったのはイサムだった。言葉が率直すぎて、褒めているようには感じない。
詩織はそれを気にせず、カメラについているぼたんのひとつを押した。
すると、あかんべえをするかのように、カメラが、レンズの下の隙間から写真を吐き出した。それを詩織は切り取って、卓袱台の上に置いた。晴彦を含めた三人は、その写真を真上から覗き込んだ。お互いに頭が多少ぶつかりあったが、そんなことは気にしていられない。今は、ここに何が写っているのかが問題なのだ。
晴彦は写真を見た。
まず、窓全体が写っている。詩織がうまく調整したのだろう。傾きもなく、画面いっぱいに窓が写されている。
そして、窓ガラスには、ランタンの淡い光に照らされた室内がぼんやりと写っている。その中心に――。
顔が写っていた。
室内の光景と重なっているので明瞭には見えないが、顔であることには間違いがなかった。
だらしなく半開きにされた口、その口から垂れ下がる、一本の赤い筋。そして、僅かに腫れた片方の瞼。ぺろりとめくれた頭皮。白い顔には表情がなく、そこに、矢張り――。
忌々しさを感じた。
晴彦はふたたび震えを感じた。
さらに、さっきは気づかなかったが、この写真には手が写っていた。胸の前に、両手をだらりとさげている。その両手の甲は、生きているとは思えないほど白かった。美しい白ではない。不健康な白だ。まるで蝋燭のような、本当の真っ白だった。
「ううん、幽霊だねえ」
とイサムが見たままのことを言った。怖いという気持ちはないらしい。もっとも、こいつが現れた時、イサムは眠っていて直接は見ていないから、現実感を感じないのかもしれない。だとすると怖さを感じないのも無理はないとも思う。それでも、実際にこれが窓からこちらを見て、さらに動いて消え去ったところを見ている晴彦からしたら、これは恐怖の記憶を喚起する以外の何ものでもなかった。
しかし、恐怖を感じながらも、晴彦はこの写真に違和感を覚えていた。
――おかしい。
この写真には、矛盾点がある。しばらく写真を眺めてから、晴彦はそう確信した。
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