そういえばゆうべは雨が降っていたんだっけ。
地面を見て、梨奈は昨夜の様子を思い出していた。下を向くと、長く伸ばした髪が垂れ下がって邪魔になる。それを人差し指でかきあげて、耳に引っ掛ける。
そうしながら、梨奈は昨日の様子を思い出していた。
たしか詩織が自動シャッターカメラを設置し、それから「くっつ君」とかいう名前ののりをコテージの周りに散布し、イサムが腰を傷めてベッドに伸びながらオバケの話をし、それから神経衰弱をやっていたら雨が降り出して、岩田が来て、そして――。
幽霊が現れたのだ。
あの白い顔を思い出すと、今でも背筋に冷たさを感じるほどだ。
梨奈は体を震わせて、顔をあげた。梨奈はイサムとともに、コテージの周囲を探索している。晴彦にそう頼まれたのだ。
そしてコテージから出た梨奈は、すぐに違和感を感じたのだ。地面に――。
足跡がついていたからだ。
足跡があること自体は別に特別なことではない。ただ、何かが梨奈の心の中に引っかかっている。その正体を梨奈は掴めないでいたのだ。
イサムは、梨奈から少し離れたところでうろうろしている。
梨奈は、さらに足跡を見つめた。
足跡はひとり分だった。コテージへ向かって近寄っていくものと、コテージから離れていくものがある。足跡の主は、どうやらコテージへ一往復したらしい。問題はどこから来たのか、だ。
梨奈は視線で足跡を追った。行きの分も帰りの分も、同じ方向から来て、同じ方向へ帰って行っている。どちらも視界に入れながら、梨奈は足跡をたどる。
ある程度追ったところで、梨奈は視線を止めた。
異質なものを見つけたのだ。何か、赤くて四角いものだった。
何だろうと思い、梨奈はそれへ向かって近寄っていく。
その四角いものの近くまできて、それが何なのか梨奈は理解した。
「ああ、これは」
トランプの札だった。ちょうど、コテージへ向かう足跡の上に、それは落ちていた。梨奈は、足跡の上に落ちているその札を拾いあげた。
表を見る。
ハートのキングだった。
「あ――」
――そういえば。
梨奈はゆうべのことを思い出した。
ゆうべは、確か二回、神経衰弱をやったのだった。その二回目。なぜかトランプが一枚余っていた。その一枚は――。
梨奈はイサムの言葉を思い出す。
あれ、おかしいな――。
どうしたの――。
一枚余ってる――。
え――。
クローバーのキング――。
〝クローバーのキング〟
今、梨奈が手にしているのは、ハートのキングだ。きっと、昨日なくなったのは、このハートのキングだったのだろう。それにしても――。
梨奈は首を傾げる。
――なんでここにトランプが。
梨奈はもう一度地面を見た。行きと帰りの分の足跡が残っている。足跡の他には、何もない。そして、足跡は往復分のどちらも、地面に深く埋まっている。靴底の溝の跡までついているほどだ。この往復分のうち、コテージに向かう方の足跡の上に、このカードが落ちていた。と、いうことは――。
ふう、と風が吹いた。
梨奈は反射的に目を閉じた。昨日もコテージへ入る前に風が吹いて、砂ぼこりが目に入ったのを思い出したからだ。しかし今日は、砂ぼこりは舞わなかった。きっと、ゆうべ降った雨で、地面が湿っているせいだろう。
――雨。
はっとした。そして、急速に頭を回転させた。こめかみに手を当てる。
靴の溝の跡まで残っている足跡。コテージへ向かう方の足跡の上に落ちていたトランプ。雨。風。砂ぼこり。
「おおい、梨奈ちゃん」
遠くをうろついていたイサムの呼び声がした。梨奈の思考は中断された。それでも、ほぼ確信に近いものを梨奈は持っていた。
梨奈はこめかみに当てた手をおろして、顔をあげた。
イサムは遠くの方で手を振っている。
「どうしたの」
梨奈はイサムに聞こえるように大きな声で問いかけた。
「ちょっと来てよ、梨奈ちゃん!」
どうしたというのだろう。女性に対して軟派なところのあるイサムが、自分から来ないで梨奈を呼ぶというのは珍しいことだった。
梨奈は言われるままに、イサムの方へ近寄って行った。足跡を踏まないようにしながら。
イサムのそばまで駆け寄ると、イサムは地面を指さして、
「足跡が途切れてるよ」
と言った。梨奈は地面を見る。イサムの言う通り、足跡はそこで途絶えていた。
ふたりは、ちょうど茂みへ入る手前にいる。ここからさらに進めば、生い茂る木や草の中へ潜っていかなくてはならない。いちおう獣道のようなものはある。そこには木がなく、いくぶん草の背も低い。それでも進むとなると大変だろう。草の背が低いといっても、茂っている場所に比べたら低いというだけで、実際その背は梨奈の腰くらいまでの高さくらいはある。
足跡が途絶えているのは、まさにその茂みのせいであった。地面が草木で覆われているから、足跡もその先には続いていないのだ。それでもここで途切れているということは、足跡の主は、この茂みの先から行き来していたのに相違ない。
「行こう!」
とイサムが張りのある声で行った。
「行くって」
「もちろん、この足跡の先に行くんだよ。コテージ周辺についていた足跡はこれだけだからね。この足跡は、きのうの幽霊をやっていた奴がつけたに違いない」
「それはわかるけど」
梨奈は茂みの奥に視線を向けた。
真夏の太陽が眩しいほどに照りつけているというのに、茂みの中は薄暗い。
あまり気が進まない。――とも言っていられないのは理解していた。
梨奈は下唇を噛んで、しばらく黙ってから決心した。
「行こっか」
「おいおい梨奈ちゃん、何を言っているんだい」
「え」
「梨奈ちゃんが行くことはないよ」
「は」
行こうと言ったその舌の根も乾かぬうちに、梨奈は行かなくていいと言うのには理解に苦しんだ。
「でも、足跡を追跡するんでしょ」
もちろんんだよと言って、イサムは頷く。
「ただし、行くのは僕さ。こんな虫がいっぱいいそうな場所へ女の子を連れていくのは、気が引けるからね」
「じゃあ、あたしはどうしたらいいの」
「よく見てみてよ」
イサムは獣道へ目を向ける。梨奈も獣道をみた。
「二手に分かれているだろ」
イサムの言うとおりだった。獣道は二方向へ続いていた。一方はより薄暗い茂みの中へ続いており、もう一方はキャンプ場内の別のコテージの方へ続いている。どちらへ行くにしてもいったんは茂みの中へ入らなくてはならないが、コテージへ行く方は、茂みに入ってすぐに脇へ逸れているから、茂みの通りにくさに煩わされることはそうはないだろう。
「梨奈ちゃんが行くのは、コテージに向かう方の道さ」
「イサムくん、そっちの道、ひとりで行くの」
「まあね。梨奈ちゃんだって、この道は行きたくないだろ」
それはそうだけれども、厭だからといってそれを人に押し付けるのはもっと厭だ。
「それは厭だけど、でも――」
「じゃあ決まり」
イサムは白い歯を輝かせた。そして、
「梨奈ちゃんはコテージへの道。僕はこっちの茂みの中への道」
と勝手に決めて、
「さあ、行こう」
自分から進んで茂みの方の道へ行ってしまった。
「ちょっと、イサムくん」
梨奈が止めたが、イサムはそのまま茂みへ潜り込んでいってしまった。
よく見れば、イサムの行く先には、蔦の絡まった人工物があった。
どうやら看板のようだ。
立入禁止――。
よくは見えないが、そう書いてあるように見えた。イサムは、あの看板を無視して行こうというのだろうか。梨奈は若干心配になった。
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