コテージに帰ると、ちょうど詩織がイヤホンを頭から外しているところだった。
「あ、お帰りなのです」
詩織はイヤホンを卓袱台に置いて、晴彦を見あげた。
「どうだった。調べられたか、四億円事件」
「調べられたなんてもんじゃないのです。これだけ詳しくでいているのです」
言いながら、詩織はノートパソコンの画面を晴彦の方へ向けた。
「やっぱり。あれほど騒がれた事件だもんなあ」
どれどれ、と呟きながら、晴彦は卓袱台の脇に腰をおろした。
「晴彦くん、おじさんみたいなのです」
「う、うるさいな。緊張から解放されて気が緩んでるんだよ」
本当だった。すでに引退しているとはいえ、元はグループを率いていた男だ。問いただすのには、気力を必要とした。
そんなことよりも、今は四億円事件の概要が気になる。有名な事件ではあるが、その詳しいことまでは晴彦は知らない。
晴彦はパソコンの画面に見入った。
ひと通り読んでから、晴彦は唸った。
「どうしたのですか」
「うん、ちょっとおかしいなと思ってね」
「おかしい?- 何がおかしいのですか」
「うん、まあ公的ではないネットの情報をどこまで信じるのかという話もあるけど、ちょっと矛盾してると思うんだ」
「矛盾?- どこがですか」
「脅迫状だよ」
そう、この脅迫状の内容はおかしい。
「だって、この内容を見てみなよ」
グループを潰せ。私のハッキング技術をもってすれば、銀行の残高を改ざんして、預金を全額奪うこともできる――。
それが脅迫状の内容だ。これを受けて、了雲は現金四億円を引き出して自宅に保管したのだ。
「これの何がおかしいというのですか。私もハッキングは得意ですけど、パソコンに繋がっていないものはどんなに高度な技術を持っていてもハッキングできないのです。了雲さんの対処はある意味間違っていないと思うのですが」
まあ、それはそうだろう。
「でも俺が言ってるのはそこじゃないんだよ。もし銀行をハックして残高を改竄できるなら――」
その力で門倉グループの資産をみんな改竄してしまえばいいだろう、と晴彦は言った。
「ああ」
と詩織が気の抜けたような声をあげた。
残高を改竄する技術があり、かつ門倉グループの解散を望んでいるなら、脅迫するまでもなく、その技術で残高を改ざんして、門倉グループに大打撃を与えればすむ話だ。
「ということは、なぜ脅迫犯は脅迫状など出したのですか」
「わからない。だけど、門倉グループを潰すハッキングの技術を持ちながら、それをやっていないということは、門倉グループを潰すというのは本当の目的じゃかったのかもしれない」
詩織は腑に落ちないといった様子で、眼鏡の弦を指で押しあげた。
「それ以前に、私の立場から言わせてもらうと、銀行の残高を改竄するなんて、かなり高度な技術なのです。そんなことがでるなら、私は探偵などやっていないのです」
何か今とてつもなく物騒な発言を聞いたような気がしたが、晴彦は気に止めないでおくことにした。それよりも、今の詩織の証言は貴重だった。そもそも、銀行をハッキングすることなどできるのだろうか。できるとすれば、その人物は国家規模で機密を防衛したり、あるいは攻撃したりするくらいの立場にいるのではないかと思う。そんな立場の人間が、いくら大規模な企業が相手とはいえ、民間人相手に脅迫状など送るものだろうか。
晴彦は顎に指を当てた。
脅迫の本当の目的は、門倉グループの解散ではなかった。だとすれば、本当の目的はなんだったのか。そして、誰がこの脅迫状を書いたのか。
そしてもうひとつ、晴彦が気になっていることがあった。それは――。
岩田のアリバイだ。
岩田のアリバイが成立した理由は、了雲の証言によるものだった。
岩田が珍しく寝癖のつけていたので疲れているのかと思い、自室へ誘ってともに朝まで珈琲を飲んでいた――。
その証言によって、岩田は疑惑を解かれたのだ。でも――。
――この証言は明らかに嘘だ。
晴彦はそう確信にしていた。しかし、なぜ了雲はこんな嘘を言ったのか。
「ねえ!」
不意に大きな声が耳へ飛び込んできた。晴彦はハッと顔をあげる。
いつの間にか入口が開けられていて、外を捜査していたはずの梨奈が、立ったまま晴彦たちを見ていた。息を切らせて、不安げな表情を浮かべている。
「どうした」
晴彦が訪ねると、梨奈は息を整えてから言った。
「イサムくんがいないの」
晴彦もイサムの姿は見ていない。詩織を見ると、詩織も無言のまま首を横に振った。知らないということだろう。
「茂みの中に獣道があって、立入禁止の看板のある方へ行ったみたいなんだけど」
あの時止めていれば、と梨奈は泣きそうな声を出した。
「大丈夫だ、梨奈」
晴彦は立ち上がって、梨奈の肩に手を置いた。
「とにかく探しに行ってみる」
「そうね」
「必ず探し出すのです」
梨奈と詩織も気合を入れたようだ。しかし、
「やめてくれ」
晴彦はそれを断った。
「今回の事件は、何か一筋縄で行かないところがあるように思う。全員で行動したら、全員が罠にかかる可能性がある。かと言って二人動いたら、ひとりを残すことになる。そうすると一人で残され方が危険になる。だからふたりでここに残ってほしい」
「そんなことをしたら、晴彦くんがひとりになってしまうのです」
「そうだね。でも、俺にはこのピンマイクがあるから、危険になったら知らせることができる。もし知らせを入れたら助けてほしい。助けは、頭のいいふたりにお願いしたいんだけど、駄目かな」
「そういうことなら」
仕方がないのです、と詩織は言った。
納得したというわけではないのだろうが、晴彦の気持ちを忖度して納得したふりをしてくれたというところだろう。梨奈も同じだった。
「きっと連絡してね」
と、残ることを決めてくれたみたいだ。
※
コテージを出た晴彦は、まず事務所へ行ってみることにした。理由は、もしかしたらイサムが何かを掴んだかもしれないと考えたからだ。もちろん、ただ単に事故に遭っている可能性もある。ただ可能性というのなら、何かを掴んだために、犯人に何らかの罠に嵌められたという可能性もある。晴彦はそう考えたのだった。もしそうなら――。
犯人は了雲か岩田だということになる。ほかにここには人間がいないのだから。
了雲か。岩田か。
もし犯人がいるとするならば――という仮定の話だが、晴彦は犯人がどちらかを見極めようと思ったのだった。
事務所では、相変わらず仙人のような風貌の了雲が、杖を脇へ置いて麦茶を飲んでいた。
「やあ、晴彦くんとやら。まだ何か気になることがあるかね」
ついさっき、晴彦に過去を暴かれてしまった了雲だったが、再度訪れた晴彦を迎える態度は、すでに軟化していた。元通り、また好々爺の表情で微笑み、晴彦に暖かい視線を向けてくる。
「どうしたの、晴彦くん」
部屋の奥の台所には岩田がいて、傷のついた顔を晴彦に向けてにこやかに事情を尋ねた。
まあ、あがりなさい、と了雲がすすめたが、晴彦はそれを断って、入口に立ったまま事態を告げた。
「イサムが――俺たちの仲間のひとりが、行方不明なんです。キャンプ場内に、危険なところなどはないですか」
そう尋ねると、了雲は顔を険しくした。
「なんじゃと」
眉間に皺が寄る。奥にいる岩田は、若干笑みを残したまま、それでも困惑した表情を口許に浮かべた。
「行方不明」
岩田がぼそりと呟く。
「もしかしたら――」
神隠しかもしれないね――と岩田は言った。
そんな岩田を、了雲が睨んだ。獰猛な目つきだった。
当サイト内に掲載されている画像・小説の著作権は、(一部例外が明記されている場合を除いて)全て提供者(製作者)様に帰属します。
当サイト内に掲載されている画像・文章の無断転載を禁じます。
当サイトに掲載されているすべての内容は、実在する人物・団体とは一切関係はございません。