うるさい。
とてつもなくうるさい。
先ほどから梨奈がしきりに話しかけてきているが、まるで耳に入ってこない。なぜなら――。
うるさいからだ。
武智探偵事務所の応接室である。
一度はおさまったはずの幽霊の存在、非存在論が、ふたたびイサムと詩織の間で勃発していた。
うるさい。
――ああ、うるさい。
うるさいな――と晴彦が止めに入ろうとした時だった。
「やめてよ、ふたりとも!」
晴彦より先に声をあげたのは梨奈だった。晴彦の横に座っていた梨奈が、立ち上がりざまにそう叫んだ。
なかなかの迫力だった。イサムも詩織も、きょとんとした表情で言い合いをやめて、梨奈の顔を見あげている。
梨奈は両手をそのくびれた腰にあて、目尻の釣り上がった目でふたりを見おろしながら言った。
「その争いの答え、あたしが出してあげるから」
「できるのですか!」
「できるのかい!」
イサムと詩織が、同時にそう言った。争っているくせに、このふたりは息が合う。
「できなかったら言わないよ」
梨奈は澄まし顔で、茶色の長い髪を片手でくし上げながら言った。その艶やかな髪を耳にかける。
「だったら教えてほしいのです。幽霊は、いるのですか、いないのですか」
詩織は興奮しているのか、ソファからやや腰を浮かせている。本気でこの問題には蹴りをつけたらしい。
そんな詩織を、梨奈はにっこりと見下ろしながら言った。
「もちろん教えてあげるよ」
松月庵の干菓子を奢ってくれたらね、と梨奈は言った。
「せこいのです。それでも財閥の令嬢なのですか」
ばん、と両手を机に叩きつける。梨奈は眉根に皺を寄せた。
「令嬢でもなんでもあそこの干菓子は好きなの」
「よおし、分かった」
詩織と梨奈の言い争いに割って入ったのはイサムだった。イサムはソファに背中を埋めながら、両腕を組んでいる。余裕たっぷりといった表情だ。
「それなら詩織ちゃん、こうしよう。梨奈ちゃんの答えを聞いて、もしオバケがいたら僕が松月庵の干菓子を奢る。もしオバケがいなかったら詩織ちゃんが干菓子を奢る。どうだい、それで」
詩織は眼鏡を光らせてイサムを睨んだものの、すぐに余裕だといった表情でそれに答えた。
「臨むところなのです。科学で証明できないものの存在など、証明できるわけがないのです。受けて立つのです」
「決まり」
イサムは梨奈を見あげて、
「答えはどっちだ。正しいのは僕かい、それとも詩織ちゃんかい」
詩織はこくりと首をかしげて、
「そうね」
と言って眉を八の字にした。さっきの意気はどこへやら、やや困惑気味な表情だ。梨奈はソファに座り直すと頬に指を当てて少し考えてから、こう言った。
「どっちも正解」
「はあ?-」
声をあげたのは、詩織とイサムの両方だった。
「どっちも正解って、それじゃあ矛盾するのです」
「そうだよ梨奈ちゃん。僕は居る、と言って詩織ちゃんは居ない、っていうんだから、その両方が正解なんてのはおかしい」
「それがそうでもないのよ」
と梨奈は虚空を見つめながら言う。
「どういうこと」
そう尋ねたのは晴彦だった。晴彦も大学のレポートで民俗学に関する内容のものを書いている。だから梨奈の答えには興味があった。というより、梨奈も同じ学科だからおそらく晴彦と同じ目的でそういったことに関する知識を蓄えていたのだろう。
「いい?-」
梨奈はイサムと詩織を交互に眺めながら慎重にそう切り出した。
「まずイサムくんの主張は?-」
「もちろん、オバケはいるっていうことだよ」
イサムは今さら何を訊くんだといった表情でそう答えた。梨奈は次に詩織に訊いた。
「詩織の主張は?-」
「幽霊なんていない」
「ほらね」
と梨奈は言う。
そう言われても、何がほらね、なのか分からない。ふたりの意見を再確認しただけのように思える。晴彦が目をやると、イサムも詩織も同じように、梨奈の言うことに納得ができていない様子だった。
「わからない?-」
そう梨奈は問いかけてから、答えを待たずに解説を始めた。
「イサムくんと詩織とでは、まず主語が違うでしょ」
「主語?-」
詩織が、丸い顔を傾げる。
「そう。イサムくんは〝オバケ〟は居ると言って、詩織は〝幽霊〟はいないって言ってるでしょ。だから、その時点でもう対立軸がずれているの」
「ということは、つまり――」
晴彦は額に拳を当てて、梨奈の言おうとしていることを要約してみた。
「〝オバケ〟は存在するが、〝幽霊〟は存在しない――と言いたいのか」
「さすが晴彦、飲み込みが早い」
「そのふたつは違うものなのかい」
イサムが顔を突き出してくる。
そう、違うのよと梨奈は答えた。
「〝オバケ〟というのはね、出没する場所が決まっていて、そこを通らなければ一生出会わなくてすむものなの。それに対して幽霊というのは、出没する場所は決まってない。狙った相手を追って、その相手の前にならどこにでも現れる」
「それは何から知ったんだ」
晴彦は思わず尋ねた。それは晴彦も知らないことだった。
「晴彦も知ってるはずだよ」
妖怪談義っていう本に書いてあったの、と梨奈は言った。
「妖怪談義だって」
驚いて声が大きくなってしまう。妖怪談義といえば、晴彦も読みかけていた本だ。了雲がこの事務所を訪れた日に、この場所で読んでいた本だ。
その作者は、民俗学者の先駆者、柳田國男。
晴彦がその著書を読んでいた時は、今のようにイサムと詩織があまりにもうるさかったから読むのを断念したのだが、そんなことが書いてあるとは知らなかった。
「で、でもおかしいのです」
詩織が異議を唱えた。
「私の主張は幽霊は〝いない〟というものなのです。幽霊とオバケの違いは分かったのですが、その解説だと、幽霊はいる、ということになって、つまり私の主張は――」
間違っているということになるのです、と詩織は小さな声で言った。自分の主張の間違いを認めることに抵抗があったのだろう。
「それでも詩織の主張はまちがってないの」
と梨奈は詩織を擁護した。
「今のは、あくまで柳田國男の説。仏教によるとね、幽霊はやっぱりいないんだよ。いや」
いちゃいけないの――と梨奈は言い直した。
「いちゃいけない?-」
詩織は上目がちに梨奈の顔を見つめる。そう、と梨奈は頷く。
「仏教の基本理念は輪廻転生、つまり生まれ変わりなのね。死んだものは必ず六道のいずれかに生まれ変わらなくてはいけない、それが仏教の基本理念なのね。だから、生まれ変わりもせずに、この世に幽霊なんていうかたちでふらふらとさまよっている暇はないの」
「オバケはいるのかい」
とイサムが尋ねる。いるよ、と梨奈は答えた。
「だって、実際にイサムくんは見たんでしょ」
「見たというか、袖を引っ張られたんだよ」
そういえば――晴彦はイサムの言葉を思い出す。
キャンプ場のコテージで、夜にイサムはこう話していた。
要約すると難しい話ではない。
夜中に道を歩いていたら、袖を引っ張られて、振り向いたけれども誰もいなかった――そんな話だった。
ふっふっふと梨奈は笑った。不敵な笑い方だ。梨奈は人差し指を立てて、こう言った。
「それはね、〝袖引小僧〟というオバケだよ」
「そでひきこぞう?-」
イサムが素っ頓狂な声をあげる。
無理もない反応だと晴彦は思う。そんな名前のオバケは初めて聞いた。
しかし梨奈は真剣な顔で説明をする。その袖引小僧というオバケについて。
「これも柳田國男の妖怪談義に載っていたんだけどね、まさしくイサムくんが体験したようなことをするオバケなの」
「袖を、引っ張るのかい」
「名前からして袖引小僧だからね。袖を引っ張られて、振り返ってみると誰もいない、それが袖引小僧なの」
実際に埼玉県にその名前が伝わっていると梨奈は言った。
「でも、おかしいじゃないか。誰もいないのに、なんで〝小僧〟だなんていうんだ」
もっともだ。爺かもしれないし婆かもしれない。
「それは私もわからないけどね、もし振り向いた時に誰かがいたら、その人の仕業でしょ、袖引小僧の仕業じゃなくて。人間じゃなくても、例えば河童がいたら河童の仕業だし、鬼がいたら鬼の仕業でしょ。でも、誰もいない場合は袖引小僧の仕業なの。袖が引っ張られたのに誰もいないなんておかしい、怖い、っていう気持ちに説明をつけるために、袖引小僧っていうオバケが生み出されたんじゃないかな」
あたしの憶測だけどね、と最後に言い足した。
「それでイサムくんは、隣町のショッピングモールで、先月に袖を引っ張られたんでしょ」
「そうだけど、それがどうしたの」
「あそこは、先月はまだ工事中だったんだよ。だから、もしかしたら釘や資材が道路に突き出ていたのかも」
「それがイサムの袖に引っかかったと――」
「う、うるさいな。怖かったんだから仕方がないだろ」
イサムは若干頬を赤くして言い返した。このまま放っておいたら、またふたりの間で口喧嘩が勃発しかねない。それを避けるためにも、晴彦は話題を変えた。
「ところでイサム、咲間さんが礼を言っていたよ」
「礼?-」
むきになっていたイサムは、その端正な顔を晴彦の方へ向ける。ああ、と晴彦は頷いた。
「ほら、あの岩田のいたコテージ。あそこから包丁が見つかっただろ」
「包丁?-」
イサムはちょっと視線をあげて考えたふうにしてから、思い出したらしく、
「あ、ああ、あれね。僕が手の縄を切るのに使ったやつだ」
「そう、それ。あれが、実はすごい証拠だった」
「証拠?- なんのだい」
「四億円事件の記事にも載っているけど、事件当日、了雲さんの自宅から包丁が一本紛失しているんだ。その包丁は今でも見つかっていない。それで、岩田の話だけど、彼も包丁で誤って顔に傷をつけてしまったって言ってただろ」
「まさか」
「そう、イサムの発見した包丁が、あれだったんだ。あの包丁から古い血痕が見つかって、その血液を調べてみたところ、岩田のものと判明したそうだよ。これで、当日本当に岩田が傷を負ったのではないかという傍証が可能になって、了雲さんのアリバイの嘘も見抜けそうだって、そう言ってた」
イサムはふふん、と鼻を鳴らして腕組みをすると、右足を高くあげて左足の上に乗せた。
「僕が捕まったのおかげで、この事務所の名声もあがったね」
得意満面だ。しかし詩織がぼそりと横槍を入れた。
「腰痛だったくせに」
「う、うるさいなッ」
イサムは、また頬を赤くする。すぐにむきになるあたり、どこか子供だと思う。
それにしても――と晴彦は思う。
岩田の父が、了雲に「怨んでなどいない」と断言した時のことを思い出す。あの時、了雲は確かに涙を流していた。
晴彦の想像に過ぎないが、あの涙は、悲しみによるものではないだろう。自分を怨んでいたとずっと思い込んでいた相手が実は生きていて、その本人の口から「怨んでいない」という言葉が聞けたことに対する、おそらく安心感から思わず漏れた涙だったのだろう。長年抱いてきた罪悪感から解放されて、呪縛から解き放たれたかのような、そんな気分になったに違いない。
了雲に取り憑いていた〝幽霊〟は、これで綺麗に祓われたことだろう。
「それにしても不思議なんだけどさ」
不意にイサムが言った。
「幽霊役のもうひとりは誰がやったんだろうね」
――もう一人だって。
「どういう意味だ」
晴彦はイサムを見る。いつの間にかイサムは、当日撮影した例の〝心霊写真〟を手に持っていた。
「だってほら、幽霊は二体いるだろ」
「えッ」
声をあげたのは晴彦だけではなかった。詩織も梨奈も大きく叫んで、机の上に身を乗り出す。
「ほら」
イサムは机の上に写真を置き、その一部を指でさした。イサム以外の三人は、写真を覗き込む。
確かに、写っていた。岩田が使った覆面の隣に――。
薄くぼんやりとした陰が写っている。
おかっぱ頭の少年のような顔だった。大きく開いた目には白目がない。全部が黒い。しかしコテージ内の明かりを反射しているのか、その黒い目の中心だけは白く光っていた。そして、その白い部分は――。
真っ直ぐに――。
カメラの方を向いていた――。
「うわああああああッ」
「きゃああああああッ」
「嫌なのですうううッ」
イサム以外の三人は同時に絶叫してソファから立ち上がり、写真から遠ざかった。
(了)
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