大咲山キャンプ場幽霊騒動 序章

 うるさい。
 とてつもなくうるさい。
 先ほどから本を開いて文字を追っているが、内容がまるで頭に入ってこない。なぜなら――。
 うるさいからだ。
 相馬晴彦は、読んでいた本を閉じると、最近赤く染めたばかりの髪をぐしぐしと片手で掻きむしった。
 武智探偵事務所の応接室である。依頼者のいない時、この部屋はバイトのメンバーの憩いの場と化す癖がある。
 これではいけない。バイトの身でありながら事務所の所長代理を務める晴彦としてはそう思うし、注意しておきたいところだ。しかし、当の晴彦自身がここを憩いの場として使っているのだから注意しようにもできない。気をつけないとな、と晴彦は覆う。それにしても――。
 ――うるさすぎる。
 晴彦は、自分の着ているピンクの半袖ポロシャツの胸元を掴んで、少し肌から離した。そうして空気を服の内側に取り込む。暑いをしのぐためだ。冷房を入れようと思うが、訳あって窓ガラスが割れているので、つけたところで冷気は逃げてしまう。仕方がないから急遽用意した扇風機で凌いでいるところだ。その扇風機は、部屋の隅で無機質に首を左右に振っている。
 晴彦は、腰に締めている赤いカジュアルベルトを少し緩めた。服装はきっちりしていたいところだが、暑さには勝てない。少しでも服を緩くして、外気に肌を触れさせなくてはいけない。下半身は白いチノショートパンツを履いているから、これはとても良い服選びだったと、晴彦は我ながら思っている。膝から下が出ているから、扇風機の風が当たるたびに、直に肌に風を感じることができる。
 こうして外気に触れることで、晴彦はなんとか暑さを凌いでいるところだ。毎年のことだし、我慢出来ないものではない。でも――。
 うるさいのには適わない。
 暑さは自然のことだからどうにもならないし、だから諦めもつくというものだが、うるさいのはそうではない。まず自然のことではなく人間のなすことだ。そして、人の迷惑ということを考えればおさまるはずである。なのに――うるさい。
 ものすごくうるさい。
「うるさいなッ」
 晴彦は読んでいた本を机の上に叩きつけ、ついに怒鳴り声をあげてしまった。
 その拍子に、口論は終わった。
 机を挟んでいがみあっていた二人が、口を閉ざして晴彦の顔を見る。
 晴彦から見て右のソファに座っているのが、この武智探偵事務所のバイト仲間のひとり、不破詩織だ。
 体はとても小さい。顔も丸くて童顔だし、見ようによっては中学生くらいにも見えるが、立派な大学生である。青い髪を黄色のリボンでツインテールに結んでおり、縁のない大きな丸眼鏡をかけている。そのメガネの奥に輝く瞳はピンク色で、これもまた丸い。首にはピンク色のチョーカーをつけている。ピンク色が好きなのかもしれない。着ている半袖も、ピンクと白の横縞模様だ。そしてその胸には、小さなアップリケがついている。赤と青の羽が合わさってハート型になったような模様のアップリケだ。ピンクづくめの中にこの緑色が映えている。
 そして下半身は、いつものテニススカートだ。白地に、襞に沿って水色の縦縞模様が入った涼やかな意匠のテニススカートだ。ほっそりとした白い足の、太腿半ばから下がしなやかに伸びている。
 事務所ではおもに経理事務と電話番を担当しているが、それは彼女のほんの一側面にしか過ぎない。
 青葉総合大学システム科学技術学部電子情報システム学科の一年生である。その所属学科に劣らぬ、いや、その所属学科の叡智をはるかに凌駕する知識と技術を持つ天才メカニック少女というのが、彼女の本当の姿だ。事務所の発明品のほとんどは彼女によるものだし、それに助けられて事件が解決した事例も多くある。また、ハッキングの才も秀でていて、警視庁のデータを盗むくらいは朝飯前とばかりにやってのける。しかし――。
「私は幽霊の存在など認めないのですッ」
 言うことがとても子どもっぽい。
 幽霊とやらの存在をきっぱりと否定した詩織は、前かがみにしていた上半身をソファの背もたれに沈め、ふん、と鼻から息を吹いて腕組みをした。細く整えられた眉を釣りあげて、対面のソファに座る青年を睨みつける。
 それに対して、
「じゃあ、僕が見たオバケはいったいなんなのさッ」
 これもまた子供のような言い草で対抗しているのは、詩織と同じく青葉総合大学の国際教養学部グローバルビジネス学科の1年生の男子大学生だ。
 イサム・ルワン・ラーティラマート。
 それが彼の名前だ。
 茶色に染めたマッシュヘアの前髪が、いつもキザな様子で切れ長の目を覆っている。
 水色と白の縦縞模様の入ったカジュアルシャツの上に、七部袖のテーラードをまとっている。夏にしては少し重みのある服装だが、下半身を覆う白いショートパンツがさっぱりとした雰囲気を醸している。ショートパンツから伸びる足は、引き締まった筋肉に支えられている。
 その名前からも分かる通り、彼は日本人ではない。親日国として名高いフィオ王国が、彼の祖国である。
 


 いや、祖国どころではない。彼は母親こそ日本人だが、父親はフィオ王国の国王であり、イサムはその血を引くラーティラマート家の第四王子という、一般市民が近づいていいのか分からないような高貴な身分なのである。本人はそれを自慢したりなどしないし気にも止めていないようなのだが、気にとめていないがゆえに平気でぽろりをそのことを話してしまい、周りがびっくりするということはよくある。その高貴な身分の王子が、
「僕はオバケを見たことがあるッ」
 などと――おそらく本気で――主張しているのだから晴彦には滑稽に思えて仕方がない。
 イサムはもう一度、
「僕はオバケを見た! オバケはいる!」
 ときっぱりと断言して、詩織と同じく背中をソファにあずけて腕組みをし、ぷいと横を向いた。切れ長の目を隠す茶色のマッシュヘアが、さらりと横になびく。
 やれやれ、と晴彦は思わずにいられない。さっきは怒鳴り声をあげてしまったものの、事務所の所長代理を務める晴彦としては、このままにはしておけなかった。探偵という仕事柄、仲間の連携が乱れていては依頼の遂行に支障をきたさないとも限らない。
 机を挟んでいがみ合うメカニック少女と王族の子息の仲を取り持とうと、晴彦はふう、と息をついた。
 そして、どうしたっていうんだよ――と言おうとした矢先、
「いやあ、若いって良いよねえ」
 のんびりとした声でそう言った人物がいた。
 晴彦の隣に座って珈琲を飲んでいた咲間蒼生だ。
 細くて背の高い体を、青いスーツでぴしりと包んでいる。ふわふわとした茶髪を頭に載せ、顔にはいつも人懐こい笑みを湛えている。
 温和そうに見えるし、実際温和な人物なのだが、彼は警視庁公安部警視という厳つい肩書きを持っている。その立場から、非公式にではあるが、いつも晴彦たちに情報提供などというかたちで協力してくれる良き協力者である。
 晴彦は出鼻をくじかれた形になり、さらにげんなりとした気分になる。ソファから立ち上がりかけた中途半端な中腰の姿勢のまま、晴彦は咲間を見る。
「なに言ってるんですか、咲間さん」
「だってさあ」
 咲間は笑みをたたえたまま、珈琲をひとくち飲んで、はあと旨そうに息をつく。
「こうやってお互いに言いたいことを言い合える仲間ってなかなかいないと思うんだよね。それも歳をとるとなおのこと。だから若いって良いよねえと思ってね」
 咲間はそこまで言って、また珈琲カップに口をつける。所長代理として仲間をまとめあげなくてはならないこっちの気持ちにもなってほしいものだ、と晴彦は思う。もっとも、警視という立場上、この咲間だって、そういう大変さは知っているはずなのだが。
 晴彦は、にこにこと微笑みながら珈琲を啜る咲間を尻目に、口論の当事者ふたりに向かって事情を尋ねた。
「で、イサムも詩織もさ、なんでそんなことで喧嘩してるんだよ」
 子供じゃあるまいし――という言葉を、なんとか飲み込む。
「そんなこととは何なのですかッ」
 はじめに反応したのは、詩織だった。青髪の小柄な少女は、丸眼鏡の奥の丸い瞳を精いっぱい釣り上げて晴彦を睨む。
「これは科学と迷信のせめぎ合いなのです! そんなことだなんて、軽々しく扱わないでほしいのです!」
「またそれだ。詩織ちゃんは科学科学とばかり言って、僕の言葉にはちっとも耳を貸しちゃくれないじゃないかッ」
 詩織を責めるかたちで口を開いたのは、イサムだった。マッシュヘアの前髪に隠れた切れ長の目が、今はさらに鋭く薄められている。
「だいたいオバケを迷信と言って切り捨てるのは偏見がすぎるし、ものの見方が狭いんだよ!」
「狭いわけではないのです!」
 一度ソファに沈みこんだ詩織が、ふたたび上半身を起こして前のめりになった。
「じゃあ、何だっていうんだい」
 イサムもソファから起きあがり、前かがみになる。
「ふたりともちょっと待――」
「狭いのではなく、正確なのです! 科学者は確認された事実以外を、推測というかたち以外で受け入れることはするべきではないのです!」
 晴彦の言葉は、激昂する詩織に遮られてしまった。
「だからちょっと待――」
「それを狭いというんじゃないか。だいたい僕の体験談を聴きもしないで、どうして嘘だと言いきれるんだい」
 晴彦の言葉はまたしても阻まれてしまった。
「幽霊という言葉自体が、すでに存在の根拠を怪しむべき対象だからなのです!」
「待てって言ってるだ――」
「いくら怪しくったって、僕は実際にオバケを見たって言ってるじゃないか!」
「ちょっと落ち着――」
「その見たという事実自体を、だから私は疑っているのです!」
「ちょっと黙――」
「疑う理由を詩織ちゃんは言わないじゃないかッ」
「うるさ――」
「イサムくんこそ、それが幽霊だっていうことを証明できていないのです!」
 晴彦の制止を無視して、イサムと詩織は反論し合いながら、どんどんと顔を近づけていく。そして、机の真ん中あたりで互いの鼻がくっつきそうになるくらいまで近づいた途端、
「ふんッ」
 と鼻を鳴らし、ふたりはまたソファにのけぞって腕組みをした。
「頼むから俺に話をさせてくれ」
 これから依頼人が来るというのに、これではうまく仕事をこなせるか分かったものではない。晴彦は憂慮を胸に抱きながら、また息をついて自分の赤い髪を両手で掻きまわした。
 

「そう言えば」
 ソファに沈んでつんとしていた詩織が、急に晴彦に話しかけてきた。
「なに」
「晴彦くんは、さっきから何を読んでいるのですか」
 丸い眼鏡の奥に輝く赤い瞳を、ぱちぱちと二度瞬かせる。
「そういえば僕も気になるねえ。その本はなんなんだい」
 イサムもまた、切れ長の目を上下に開いて晴彦の手元へ視線を向ける。
「あ、ああ、これ?-」
 不意に話題の矛先が自分に向いたので、晴彦は少し戸惑った。机に叩きつけた本を拾って、ぱらぱらとページをめくる。
「これは――」
 妖怪談義だよ――と晴彦は言った。
「妖怪――」
「談義いい?-」
 イサムと詩織の声が重なる。同時にふたりの目が再び釣りあがった。
「晴彦くんもそんな非科学的なことを信じているのですか」
 と若干怒気を含んだ声で言ったのは詩織だった。
「いや、そういう訳じゃ――」
「じゃあ、どういう訳なのですか」
「どういうわけも何も、俺は日本語日本文学科なんだよ」
 晴彦もまた、イサムや詩織と同じ青葉総合大学に通う学生だ。
「知っているのです」
「妖怪と文学が関係あるのかい」
 詩織とイサムの質問が重なる。
「とりあえずふたりとも、同時に喋るのはやめてくれ。俺は聖徳太子じゃないんだ」
 晴彦がそういうと、詩織とイサムは、無言のまま一瞬だけ視線を交わした。どっちが先に喋るのか相談しようと思ったのだろう。それでも今は喧嘩中で気まずいものだから、すぐにまた視線を反らせた、といったところだろう。
 とにかくどっちに加担しても気まずくなるだけだから、晴彦はなるべく中立の立場から本に関する説明を始めた。
「この本はね、明治時代の民俗学者である柳田國男という人が書いた書物だよ。日本各地に伝わる、まさにオバケだの幽霊だのの話がまとめられている」
「つまり晴彦は、オバケはいる、という意見なんだね」
 そう言ったのはイサムだった。嬉しそうに、その切れ長の目を細くして微笑んでいる。
「いや、そうじゃない」
「ということは、幽霊はいない、という立場なのですね」
 次に詩織が、眼鏡の奥の瞳を輝かせてそう言った。
「いや、それも違う」

「だったらどっちなのですか」
「だったらどっちなんだい」

 イサムと詩織が声をそろえて肩をいからせる。
 今まで喧嘩していたとは思えない息の合い方だ。
「いや、だから・・・・・・」
「そんなどっちつかずの態度をとるなんて、晴彦くんを見損なったのです」
 詩織はぷいと向こうへ顔を向ける。
「晴彦が敵に回るとは、親友として寂しい気持ちでいっぱいだよ」
「なんでそうなる」
 両手をひろげて肩をすくめるイサムに、晴彦は静かに抗議した。
「それは兎も角さあ」
 口を挟んだのは、今までのんびりと珈琲を飲んでいた咲間だった。
「私は今朝、ご飯を食べていないんだよね。何か食べにいかない?-」
 晴彦が幽霊話の板挟みになって苦しんでいるというのに、呑気な警視だ。いや、それより――。
 晴彦は部屋の壁にかけてある時計に目をやった。
 午前八時五十分。もうそろそろ事務所を開ける時間だ。
「咲間さん」
 晴彦は時計にやっていた視線を、隣に座る警視のにこやかな顔へ向けた。
「ん?-」
「お仕事はいいんですか」
「仕事?- うん、今日は非番」
「何しに来たんですか、ここへ」
「何って」
 珈琲を飲みに来たんだよ、と咲間は言った。
「はあ?-」
 これには全員が声をあげた。イサムも詩織も、そして晴彦も。
「それだけのためにここへ来たんですか」
 なかば呆れながら晴彦は訊いた。咲間はそれに対して、悪びれもなく、そうだよ、と答えた。
「そうだよじゃないですよ。俺たちはこれから依頼者を迎えきゃいけないんです。その時はこの部屋を使うんですから、急用がないならせめて事務所の方へお願いしますよ」
「そっかあ。それは邪魔して悪かったね」
 咲間それでも人のいい笑みを浮かべながら、そのふわふわとした茶色の髪を片手で掻いた。そして飲みかけの珈琲を片手に、ソファから腰を浮かせた。その時だった。

「助けて!」

 事務所の外から声が聞こえた。切羽詰まった声だった。
 全員が事務所の外へ目を向けた。ついさっきまでにこやかな顔をしていた咲間も、珈琲を机に置いてその童顔を入り口の方へ向けている。その顔からは、すでに笑みは消えていた。かわりに、厳しい表情がその顔には浮いていた。口許を引き締め、目には鋭い光が宿っている。警視としての習性だろう。こういうあたり、さすがだと晴彦は思う。
 晴彦が声に反応したのは、その声が切羽詰まったものだから、という理由だけではなない。その声が、馴染みのある声だったから、でもあった。おそらく、イサムや詩織、咲間も同じだろう。声は、晴彦たちと同じ、この事務所のバイト仲間のものだった。
 仲間の危機を察知して、振り向いてからすぐに晴彦は駆け出そうとした。だが、足に力を込めたところで、晴彦は実際には足を動かすことはなかった。声の主――事務所の仲間――が、みずから事務所に入ってきたからだ。
 入ってきたのは、髪の長い少女だった。
 

 茶色く染めた真っ直ぐな髪を、肩甲骨の隠れるほどまで伸ばした少女だ。
 上半身には緑色のパーカーをまとっている。その緑色のパーカーの胸部分は豊かに膨らんでおり、「UNIVERCITY SYMBOLS」という文字が白く染め抜かれている。下は白いホットパンツだ。そのホットパンツからは、張りのあるしなやかな脚がすらりと伸びている。
 雨宮梨奈。それが彼女の名前だった。晴彦の幼馴染にして恋人だ。晴彦と同じく、青葉総合大学、日本語文学科に所属している。
 大きな瞳は目尻が少し釣りあがっていて、普段は気の強さを感じさせるが、その顔が今は苦痛に歪んでいた。
「どうした」
 晴彦が真っ先に声をかけた。
「どうしたのですか」
 ほとんど同時だったが、晴彦のわずか後に詩織が声をあげた。丸い瞳を瞬かせている。驚いているのだろう。
「どうしたんだい」
「どうしたの」
 イサムと咲間も、続いて声をあげた。
「助け、て・・・・・・」
 梨奈は苦しそうに呻いている。しかし晴彦を含め、イサムや詩織や咲間が注目しているのは、梨奈ではなかった。三人が注目しているのは、梨奈ではなく、梨奈が肩を貸している見知らぬ男だった。
 意識があるのかないのかわからない。男は穴だらけのコートを身にまとい、ぐったりと首を前へ傾げている。雑草のように伸びた髪は、白茶けており、汗と汚れにまみれて固まっている。足には力が入っていないのだろう。つま先を床につき、膝をくの字に曲げている。片腕もだらりとぶら下げている。もう片方の腕はどうしているかというと、これは梨奈が支えていた。
 梨奈は首の後ろに男の腕を回してその手首を掴み、もう片方の腕で男の脇を抱え込んで、ようやく男の体を支えている。
 梨奈は非力ではないが、そこは女性だ。男ほどの力はない。見れば男は、痩せているとはいえ、直立すれば背は高そうだ。それなりに体重はあるだろう。そのせいかどうか、梨奈の表情は苦しげだ。
「助けてってば」
 梨奈はもう一度呻くように言った。
 いきなり現れた見知らぬ男に、呆気に取られて動きを止めていた晴彦は、その声でようやく我に帰って梨奈に駆け寄った。同時にイサムと詩織、それから咲間も梨奈に駆け寄る。そして三人がかりで男の体を受け止め、引きずるようにして、ソファへ運んだ。そして投げ出すように、男の体をソファの上に放り出す。
 男は命のない物体のように、ソファに沈んだ。
 晴彦たちは息をついた。梨奈も男を運んだ疲れから開放されて安堵したのか、息を弾ませて額の汗を拭いている。この応接室の中もだいぶ暑いが、外はもっと暑いだろう。外から男を運んできた梨奈は、さぞ身体が火照っているに違いない。
「で、誰なの、この人は」
 イサムが頬に浮かぶ玉のような汗を袖で拭いながら、梨奈に訊いた。しかし視線は、ソファに沈む男へ注がれている。
「わからない」
 と梨奈はひと言答えた。ふう、と息をつき、さらに言葉をつづける。
「ここへ来ようとしていたら、ちょうど入口のところですれ違って、その途端に倒れかけたから思わず支えたんだけど」
 救急車呼んだ方がいいかな、と梨奈は最後につぶやいた。
「そうだねえ」
 咲間は立ったまま男の額に手を当てた。
「少し熱いな」
 次に中指と親指で瞼を開いて瞳孔を覗き込む。
「少し反応が悪い。熱中症かもしれないな」
 普段はにこにことしている咲間の顔が険しい。警視としての自覚は、常に持っているようだ。童顔に変わりはないが、そこに浮かぶ表情には、感情を排除して現状分析に特化したかのような、冷徹ささえ感じる。
「梨奈ちゃんの言うとおり、ここは救急車を呼んだ方がいいかもしれない。もしくは、私が車で病院まで運ん――」
「待ってくれ」
 咲間の流暢な喋りを掠れた声が遮った。
 声は低い位置から聞こえてきた。
 声の方へ目をやる。
 ソファに寝かせていた男が上半身を起こしかけていた。
「救急車はいらない。私は大丈夫だ」
 男は片腕の肘をソファにつき、もう片方の腕を宙に浮かせて、その勢いで上体を起こそうとしている。
「無理をしては駄目なのです!」
 詩織が慌てて駆け寄り、ソファの脇にしゃがみこんで、か細い腕を伸ばして男の胸元に手を添える。男はそれに促されて、ふたたびソファに寝そべった。
 しかし男は首を曲げて晴彦たちの方を見て、さらに、
「救急車はいらない」
 と訴えた。
 ざんばら髪が左右に割れて、顔が覗く。
「う」
 晴彦は息を飲んだ。男の顔を見て――差別的な感情かもしれないが――気持ち悪さを感じたのだ。
 男の顔は灰色をしていた。目は半開きで、下瞼は大きな隈に縁取られている。それらはおそらく、疲労と栄養失調のせいだろう。それはいい。問題は――。
 男の頬にあった。
 その頬骨の浮いた灰色の頬には――。
 大きな火傷の跡があったのだ。
 

 灰色の肌が、歪な円形にえぐられ、中身が赤く剥き出しになっている。膿んでいるのか、それとも膿が固まっているのか、てらてらと表面が赤く輝いている。
 それを見て衝撃を受けたのか、詩織もしゃがみ込んだ姿勢のまま、ひ、と小さな声をあげて、少し後ろへ体をひいた。
 触れてはいけない気がして、晴彦はごくりと唾を飲み、
「でも具合が悪いんじゃ、このままにしておいたらまずいですよ」
 と、膿とは関係のない話題を出して自分の意識を反らせた。それでも自分の視線が彼の頬から逸れていないことには、自分自身、しばらく間を置いてからでないと気づかなかった。
「いや、大丈夫だ。そもそも私は、医療にかかることができない」
「どういうことだい」
 疑問を発したのはイサムだった。イサムも男の頬に衝撃を受けているのか、瞬きをまったくしない。
「だって私は――」
 男は、その痩せこけた灰色の顔をイサムの方へ向け、そして、

「――幽霊だから」

 と言った。
「幽霊」
 誰にともなく呟いたのは、詩織だった。しゃがみ込んでいた科学至上主義少女は、ゆっくりと立ち上がって、手のひらでその丸い顔を覆った。細く整った眉が、不安そうに歪む。
「でも頼みがある」
 男が言った。
「頼み?-」
 晴彦が答える。
「ああ、私が回復するまで、休ませてほしい。一日でいい。ここに置いてほしい。そうすれば回復するから」
「それは――」
 晴彦は仲間の顔をうかがった。見知らぬ人間――それも〝幽霊〟を自称するような――を事務所に置くのは、正直、気が進まない。とはいえ、男の身の上を考えると、追い出すというのはあまりに無碍ではないかとも思える。
「安心しなよ」
 と咲間が言った。その顔にはいつもの温和な笑みが浮いている。
「さっきも言ったけど、私は今日は非番だから、きみたちが依頼を受けている間は私が様子を診ておくよ」
「でも、この部屋で依頼人とは面会するんですよ」
「うん。でも、休憩室くらいあるんでしょ」
「まあ――」
 あるには、ある。でも一泊できるような広い部屋ではないし、設備もない。それでもいいのだろうかと考えていると、
「寝る場所さえあれば満足だ。どうかお願いする」
 と男が言った。
「それなら――」
 晴彦は咲間に視線を向けた。お願いしてもいいですか――という晴彦の気持ちを咲間は汲んでくれたのか、笑顔のまま一度、大きく頷いた。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
 晴彦はそう言って、次に男に声をかけた。
「一泊なら結構ですよ。休憩室に移動しましょう」
「ありがたい」
 男はそう言って、顔の前で手のひらを縦にして拝むような動作をした。その手の甲には――。
 大きな切り傷があった。