それから一週間後。
雨宮家の風情のある大きな屋敷で、梨奈はじいやと呼ぶ雨宮家の家令の寺崎から説教されていた。
「お嬢様。そのショートパンツやミニスカートとやらを履くなとまでは申しません。ですが、邸から一歩でも外に出れば殿方の視線もございます。名門・雨宮家の令嬢として、もう少し日頃のお召し物や身だしなみには気を付けていただきませんと……」
寺崎は屋敷の中でくつろぐ梨奈の服装を見て、クドクドと注意する。いつもはその小言を我慢して聞き流していたが、今日はその我慢が限界を迎えてしまった。
「もう!じいやはうるさいなぁ!何を着ようが私の勝手でしょ!」
梨奈はそう言って、勢い良く屋敷から飛び出す。しばらく走り、屋敷が見えなくなったところで走るのをやめて歩く。
「じいやのバカ……」
そう呟きながら前を見ると、いつの間に河原までたどり着いていた。じいやが私の服装をみて注意するのは分かる。けど、ちょっとくらい私の意見も聞いてくれてもいいじゃない。自分はショートパンツやミニスカートが可愛いと思うから穿いているだけなのに。梨奈は河原を下りて川の一歩手前まで行き、足元に落ちていた石を川に向けて投げる。
「ねぇねぇ、そこのお嬢ちゃん!」
突然声をかけられた。梨奈が顔を上げると、河原の上の道路で一台の黒いワゴン車が止まっていた。その運転席から一人の男が窓を開けて梨奈に声をかけたのだ。
「あの人って……」
梨奈はその男に見覚えがあった。一週間前に女の子を誘拐しようとしていた不審な男だ。確か名前はトオルだったかしら。バカな印象しかなかったからもう警察に捕まったものだと思っていたわ。梨奈は車に近づき、運転席の男の話を聞く。
「何でしょうか?」
「呼び止めてごめんね。俺たちちょっと代々木公園に行きたいんだが道が分からないんだ」
後部座席にはもう一人、シンイチと呼ばれていた男が座っていた。
「実は、俺たち田舎から上京してきたばかりなんだ。だから、東京の地理はよくわからなくてね。一緒に車に乗って道案内してくれないかな?」
まさか、この不審者、この私を誘拐するつもりなのかしら。今時、小学生だってそんな手には引っかからないわ。と梨奈は内心思いながら小馬鹿にするが口には出さずに何も知らないふりをする。
「いいですよ」
見た所、この二人はそんな凶悪犯にはみえない。せいぜい虚勢を張ることしかできない小悪党くらいだろう。ついていっても梨奈は逃げ出せる自信があるくらいだ。話の口ぶりからして、ほんの一週間前に自分や晴彦と会ったことはもう忘れているみたい。そう考えていると、梨奈はここであることを思いつく。それはほんの悪戯心だった。このままわざとこの二人に誘拐されたら、じいやは必ず心配するわ。だから、じいやに心配させて見返したかった。
梨奈は迷うことなくトオルの運転する車の後部座席に乗り、梨奈の隣にシンイチが座る。トオルとシンイチに警戒心を与えないように、何も知らない呑気な少女を演じる。
「お兄さんたち、名前はなんていうの?」
「俺がトオル。で、こっちがシンイチだ」
トオルはそう言って答えてくれる。今から誘拐する相手に名前を教えるなんて、やはりバカね。と梨奈は思う。
車はそのまま街中に入り進んでいくが、段々梨奈の指示した方角とは全く違う道へと入っていく。だが、男達は梨奈を脅すようなことはせず、違う道にどんどん入っていった所で、梨奈は男たちに話しかける。
「あのー、道が違いますよ」
「……う、うるさい!静かにしろ!お前は誘拐されたんだぞ!」
シンイチは唐突に忍ばせていたナイフを梨奈に突きつける。「そら来た!」と梨奈は心の中でガッツポーズをしながら、にやけそうになる口を押さえてわざとらしく怯えを見せる。
「……ゆ、誘拐!?いやっ、誰か助けてっ……家に帰してください!」
「うるせぇ!!お嬢ちゃん、おとなしくしてれば手荒なことはしねぇよ。わかっているだろうが、くれぐれも変な気を起こすなよ!不用意に動けばこれで刺すからな!!」
梨奈は冷静に、シンイチが突きつけているナイフを見る。それにしても、ナイフを持っている手が震えているじゃない。何をビビっているのかしら。
「ひぃっ……」
このくらい怯えておけばいいかしら。少し震えるのも怯えているように見えていいわね。と、自身の演技力に満足しながら、怯えるふりを梨奈は続ける。
やがて車は海辺の近くに有る第三埠頭の廃倉庫に辿り着く。
「おい、降りろ!」
ナイフを突きつけられたまま梨奈は車を下ろされて監禁部屋の中へと連れてこられる。監禁部屋はかつて職員の休憩所になっていた部屋のようで、電気は天井から吊るされた電球があるだけでほのかに明るく、机と椅子と段ボール箱が数箱置かれている。
「ここで座ってろ!」と、トオルからきつく言われ、梨奈は言われた通りに床に座る。地面は埃っぽく、コンクリートの地面のためひんやりと冷たい。梨奈は少し身構えながら次に何をされるのかを警戒しながら男達の様子を見る。おそらく先ずは体を縛るでしょうね。そうしないと逃げてしまう可能性があるのだから、身動きが取れないように縄で手足を縛る。黙らせるために猿轡をかまされるかもしれないわ。そして、その次にお金が目当てなら身代金を私の家に請求するでしょうね。もし体が目当てなら襲いかかってくる可能性もあるでしょうけど。と、考えていた。
それからしばらく時間がたったが、男達は特になにもしてこない。椅子に座って漫画雑誌を読んだり持ち込んだカップラーメンを作ってすすったりしているだけで、バイトの休憩時間みたいな空気が流れている。え、なにあれ。あれで私を見張っているつもりかしら。隙だらけで逃げ放題よ。え、こいつらバカなの?
「私を縛ったりしないの?」
梨奈は我慢できずについそう聞いてしまった。これはそう聞かずにはいられない。なんてお粗末すぎる誘拐犯なの。これじゃあ、人質の意味がないじゃない。
「え……お嬢ちゃん、もしかしてそういう趣味があるの?縛ってほしいとかーーー」
その一言が、梨奈の逆鱗に触れた。
「はぁぁぁ!!!?」
梨奈はそう言われ、激情し立ち上がって男達を睨みつける。
「普通は人質をとったなら逃げられないように縛るでしょ!雰囲気が台無しよ!まさかこれで誘拐したつもりじゃないわよね!!これで誘拐したなんて甚だおかしいわ!逃げ放題じゃない!!貴方達、それでも誘拐犯なの!?もっと誘拐犯としての自覚を持ちなさいよ!」
そこまで叫んだところで、梨奈の気迫に気圧されていたトオルがようやく口を開く。
「て、てめぇっ!何勝手に喋ってっ……」
「そりゃあ喋るわよ!黙らせたかったら猿轡でもかませなさいよ!」
「くっ……」
梨奈の反論は的を得ており、トオルとシンイチは反論できずに口をつぐむ。
「兄貴!やっぱり準備しておいたほうがよかったんじゃ……」
「うるせぇ!!」
二人のやりとりを見ていた梨奈は疑問を口にする。その表情は信じられないという驚愕のものであった。
「まさか、用意してないの?」
「してねぇよ!悪いかよ!」
トオルは逆ギレぎみにそういう。その言い方も梨奈は気に食わなかったのか、さらに叱咤する。
「悪いわよ!今すぐ買ってきなさい!そうじゃないと逃げるわよ!」
トオルとシンイチにそう命令し、トオルは困惑しながらシンイチに命令する。
「おい、シンイチ買ってこい」
「は、はいっ!」
シンイチはトオルに命令され、すぐに車を出してホームセンターまで買いに行った。しばらくして戻って来たシンイチが買ってきたのは、縛るためのロープと猿轡用の手ぬぐい。それを確認した梨奈はすかさず指示を出す。
「先ずは猿轡をかませて、その次に縄で縛っておくのよ」
「は、はいっ」
なぜかシンイチは敬語を使って梨奈の指示通りに彼女の口に猿轡をかませ、両手を後ろ手に縄で縛る。ただ、シンイチはキツく縛ってしまうと梨奈が痛いだろうと気を使ったのか、縄はかなり緩くなっている。これだと簡単に自力で解けてしまうじゃない。そう言おうとするが、猿轡を噛んでいるためいうことはできない。まぁいいわ。とりあえずこれで監禁されている雰囲気だけは出るわ。両足は縛られてなくてフリーの状態だけど、ひとまずはこれでよしとしましょう。さて、この先はどうする気なのかしら。
またそのあとは何も起きないまま、しばらく時間が経過した。
挿絵提供は、umika様。
「兄貴、これからどうするんですか?まさか、本当に身代金をこいつの家族に要求する気じゃーーー」
「要求するに決まっているだろ。俺たちにはもうそうするしかないんだ」
「んー!んー!」
暇そうにその話を聞いていた梨奈は何か喋りたそうに呻き声を上げる。トオルは梨奈の猿轡を外してやる。梨奈は咳払いをしてから、言う。
「ごほんっ!あー、あー。よしっ」
「なんだよお嬢ちゃん、トイレか?」
「違うわよ!ねぇ、貴方達。私の身代金を本当に要求するつもりなの?何か訳ありみたいだれど」
「あぁ。実は、俺達の勤め先である町工場が潰れる寸前でな。最近業績が伸びなかったのが原因で銀行から貸し渋りにあったんだ。社長であるおやっさんにも随分お世話になってんだ。だから俺たちは何があっても工場を失うわけにはいかねぇんだ。……もう、こうするしかないんだよ」
「そう……そんなことがあったのね」
トオルたちの話によれば、2人は少年時代、相当なワルで札付きの不良だった。そんな2人を更生させて立ち直らせたのが、保護司のボランティアをしていた今の彼らの勤め先の町工場の社長である。それ以来、トオルとシンイチは恩人である社長のことを「おやっさん」と呼んで、心から慕っていた。誘拐を行うなんていう手段は決して褒められたものではない。けれど、トオル達の話を聞いて梨奈は素直に同情する。そんなことがあれば、大金を欲しがるのは当たり前だ。恩人の窮地であると同時に、この人達にとっての居場所がなくなるかもしれないのだから。
「それでお金が必要っていうのはわかったわ。それで、いくらあればその工場が潰れずにすむのかしら?」
「五百万だ。五百万あれば町工場の倒産は防げるんだ。それさえ受け取れば、お前も解放し俺たちも警察に自首するつもりだ」
その言葉に梨奈は反応し、驚いて聞き返す。
「五百万ですって?」
梨奈は体を震わせながらながらそういう。男達はやはりこのか弱い少女にそんな大金の話をしてはいけなかったのではないかと後悔しながら、この目の前の少女を安心させようとする。そんな後悔はすぐになくなるとも知らずに。
「あぁ。あんたにも危害を加えるつもりはない。その大金さえ手に入ればーー」
「この私を五百万なんてはした金で取引しようっていうの?」
「え?」
梨奈は苛立ちを孕んだ低い声でトオルにそういう。トオルは間抜けな声を上げ、梨奈を見る。梨奈は恐怖に震えていたわけではなく、これまで感じたことのないほどの怒りに震えていた。
「五百万で取引なんて、そんなことしてみなさい!末代までの恥よ!今すぐ身代金の要求額を上げなさい!」
梨奈は吠えるようにそういう。男達はこの少女が何を言っているのか、理解が追いついていなかった。まさか、人質のほうから身代金の要求額を上げるように言われるとは思ってもいなかったのだ。
「今すぐ私の身代金を十億に引き上げなさい!」
「……は?」
トオルとシンイチはあまりの額の大きさに腰を抜かしてしまう。トオルとシンイチは梨奈が大金持ちの娘とは知らずに誘拐していた。まさか、偶然誘拐した少女が大財閥の娘だったなんて、誰がそんなことを予想していただろう。
「待ってくれ!そんな額要求できるわけないだろ!下げてくれ!」
トオルはそういう。そんな額を要求する気はもともとなかった。工場が倒産を免れる額さえあればそれで十分だった。それが思ってもいない額に跳ね上がってしまったのだ。
「はぁ!?じゃあ、五億に下げてあげるわ」
「もう一声!!」
「三億ね。これ以上は無理よ」
「お願いだ!!」
トオル達は土下座までして、なんとか額を下げてもらおうと梨奈と交渉する。その後も誘拐犯の方が人質に対して身代金を値切るという狂った光景が繰り広げられ、トオル達の土下座が効いたのか梨奈は値段を下げる。
「はぁ、仕方ないわね。一億で手を打ってあげるわ。それ以上は本当にびた一文下げないわよ」
「そ、それなら……」
そんな大金必要ではないが、最初の十億に比べたらまだマシだと思い、トオル達は渋々了承する。そして、シンイチはトオルに恐る恐る話しかける。
「兄貴、俺たちとんでもない人物を誘拐してしまったんじゃ……」
「お嬢ちゃん、あんた一体何者なんだ……?」
「私!?私は雨宮財閥の令嬢、雨宮梨奈よ!そんなことも知らなかったのね」
トオルとシンイチはポカンと口を開けて唖然とする。雨宮財閥と聞けば誰でも知っている大財閥の名前だ。
「あ、雨宮って、まさかあの日本で一か二の大富豪の!?」
「わかったら今すぐ私の家に脅迫電話をかけなさい。おそらく、雨宮家の執事である寺崎という男が電話に出るはずよ。その男は執事長で、お父様からも最も厚い信頼を置いている存在。一億程度なら独断で決済できる権限を持っているわ」
「わ、わかった……」
完全に頭の中が真っ白になってしまったトオルは、梨奈に言われるままに電話を掛ける。電話はすぐに繋がり、落ち着いた様子の寺崎の声が聞こえる。
「もしもし、どちら様でしょうか」
「あんたのとこのお嬢さんは預かった。返して欲しければ一億を用意しろ。それでお前のところの大事なお嬢様を返してやるよ」
トオルは低い声でそこまで言うと、一度梨奈を見る。梨奈は一つ頷き、寺崎に気づかれないようにトオルの耳元で小声で告げる。
「警察や私の両親、武智探偵事務所にも知らせるなって言うのよ。さもなくば人質に危害を加えると付け加えてね」
「おっと、警察だけでなく、雨宮夫妻や武智探偵事務所にも知らせるなよ。さもなくば人質に危害を加えるぞ」
トオルは梨奈のいう通りに寺崎に伝える。今回の梨奈の目的は、あくまでじいやの寺崎に一泡吹かせることにある。両親や晴彦たち探偵事務所の仲間にまで余計な心配はかけたくなかった。
「これはとんだ無理をおっしゃる。旦那様に報告しないでどうやって一億もの大金を用意しろと?私めはただの執事。召使でございます。そのような権限はーー」
「雨宮家の執事長なら一億程度なら独断で決済できる権限を持っているはずだ」
「ほう……よくそんなことまでご存知で?」
「ま、まぁな……その程度のことは調査済みだ」
トオルは冷や汗をかきながら答える。このバカ。余計なことは言わなくていいのよ。まずい、寺崎に気付かれてしまったかもしれない。
「わかりました。明日までにはご用意いたします。どちらへ持っていけばいいでしょうか?」
「それじゃあーーー」
トオルは寺崎に取引の場所を教える。今や誘拐犯と人質の力関係は完全に逆転。気が付けばトオルとシンイチの2人組は、囚われの身であるはずの梨奈の手下にされてしまっていた。
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