翌朝、トオルの指示通りに身代金を収めたジェラルミンケースをもって寺崎が一人で指定された第三埠頭の廃倉庫に現れる。
「お嬢様、ご無事でございますか?」
「んんーー!!むむぅぅーーっ」
寺崎は落ち着いた様子でトオルと対峙し、その後ろにいる梨奈に笑顔を向ける。じいや、来てくれたんだ。ちょっと感動した。
「さぁ約束です。お嬢様を解放していただきましょうか」
寺崎はジェラルミンケースを開けて金額があることをトオルに確認させ、そういう。トオルは大量の札束を目の前にし、唾を飲み込む。
「あぁ」
寺崎はジェラルミンケースを閉じてからトオルに渡そうとする。
「それではこれはお約束のお金です」
「いや、もう金はいらねぇよ」
しかし、トオルはそれを拒否した。
「はい?」
寺崎と梨奈から同時に気の抜けた声が上がる。
「お嬢ちゃんも、誘拐なんかしてすまなかったな」
トオルは身代金を受け取らないまま梨奈の猿轡を外し縄を解き、彼女を解放する。梨奈は自由の身となり、トオルに聞く。
「いいの?」
「あぁ、いいんだ」
トオルとシンイチは昨晩のうちにじっくりと二人で話し合い、「やはり誘拐などという汚い手段で得られたお金を使ったのでは、たとえ町工場の経営が軌道に戻ったとしても、世話になったおやっさんが喜ぶはずがない」という結論に至っていた。
「俺たちは自首する」
こんなことは最初からするべきではなかった。トオルとシンイチは取り返しのつかなくなる一歩手前で踏みとどまったのだ。そして、トオルとシンイチはケジメをつけるために寺崎に頼み込む。
「警察に通報してくれないか、じいさん」
「いえ、そのようなことはいたしません」
「え?」
寺崎の言葉にトオルとシンイチは耳を疑った。大財閥の娘を誘拐しておいて、お咎めがないわけがない。
「貴方達はお嬢様が企てた狂言誘拐に巻き込まれたにすぎません。そうですよね、お嬢様」
「うっ……」
梨奈は寺崎に思惑を見抜かれて、肩を大きく震わせて寺崎から目線をそらす。寺崎は呆れ顔で梨奈を見たあと、トオルとシンイチを見ていう。
「誘拐などという手段は決して許されるものではありません。しかし、自らの過ちに気づき、潔く罪を償いたいと申し出た貴方達の心根は、天晴れでございました」
寺崎は二人の行動を素直に認め、褒め称えた。普通の人間であれば金に目がくらみ、誘拐をして身代金を受け取っていたことだろう。それが自分たちの居場所を守るためならばなおさらだ。それでも、二人は誘惑に負けることなく、正しい道を選んだ。他人から金を奪って取り返したものについてくるのは罪悪感と後悔だけ。そこには達成感や感動は生まれない。それをわかっていたから、二人は身代金を受け取らなかった。雨宮家に仕える執事という仕事柄、これまで多くの人間を見てきた寺崎は、寸でのところで踏みとどまったそんな人間が悪ではないと確信していた。
「そこで、今回の事件は初めからなかったこととして処理させていただきます。このような事が表沙汰になっては、雨宮家の恥でございますから。また、雨宮財閥傘下の銀行からその町工場に融資が受けられるように手配致しましょう」
「それって……」
トオルとシンイチは顔を見合わせて驚く。身代金を受け取らない以上、二人は工場のことは半ば諦めていたのに。
「貴方達の居場所が、なくなることはありません」
「あ、ありがとうございますっ……!!」
寺崎の提案はトオルとシンイチにとっては救いの手だった。二人は涙を流しながら何度も感謝の言葉を述べ、寺崎に頭を下げた。こうして、梨奈が起こした狂言誘拐事件は無事に幕を閉じたのだった。
ちなみに余談ではあるが、廃倉庫の周囲には万一の事態に備え、寺崎の指示で雨宮家の擁する私設特殊部隊が蟻の這い出る隙間もなく包囲していた。もしトオルとシンイチの2人組が救いがたいような悪党で、そのまま身代金を奪って逃げようとしていたら、きっと2人は聞いただけで身の毛もよだつような制裁を加えられていたことだろう。だがその件については、誰も何も知らない方が幸せだ。
後日談としては、トオルとシンイチが勤めていた町工場は無事に経営再建を果たし、現在は二人とも今まで以上に真面目に額に汗して働いているという。そして、梨奈といえば。
「さて、お嬢様」
邸に帰った梨奈を待っていたのは寺崎のお説教だった。寺崎は優しく微笑みながら梨奈を見る。一見優しそうに見えているが、梨奈にはその笑みの裏側に怒りが潜んでいるようにしか見えなかった。梨奈は恐る恐る寺崎をみて聞く。
「な、なに?じいや」
「いいですか、お嬢様。あのお二方がお人好しであったからよかったようなものの、もし人質を平気で殺すような凶悪犯だったらどうするおつもりだったのですか?」
真剣な顔で寺崎はそういう。梨奈はあの二人がそんな度胸もない人間だと見抜いていたから、わざと誘拐された。けれど、もしあの二人が人を殺すことを厭わない人間だったらと考えると、背筋が寒くなる。
「ごめんなさい」
さすがに今回はやりすぎた。そう素直に反省する梨奈であった。
END
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