飴はないだろうと思う。
さっきから、バルナバスがしきりと詩織の機嫌をとっている。食べ物をちらつかせては、その巨体に似合わない笑みと猫なで声で詩織に話しかけている。
というのも、誘拐してからもう一日以上経つというのに、詩織はいっさい食事をしていないからだ。さすがに殺してしまうわけにはいかないので、コンビニで買ってきた弁当を勧めてみたり健康飲料を飲ませようとしてみたりしたのだが、こちらの勧める一切の飲食を詩織は拒否している。
なんとか食事をさせないとまずいものだから、詩織の口を塞いだガムテープも、今はいったん剥がされてる。それでも手足の動きを奪う縄は解かれていない。喋れるようになったというだけで手足を解放されたわけではないから不自由なことに変わりはないだろうが、詩織はあくまで強気だ。バルナバスが何か言うたびに、眼鏡をかけたその丸い顔を左右に反らせては、ふんと鼻を鳴らしている。
それでバルナバスが最後にちらつかせたのが、こともあろうに飴玉だったのだ。
――子どもでもあるまいし。
飴で釣られるようなことはないだろうと思う。
「夏には持ってこいの塩飴でゲスよ。美味しいでゲスよ」
とバルバナスは、なれていないだろうご機嫌取りに躍起になっている。しかし案の定、詩織の態度は拒絶一色だ。まともに言葉さえ交わそうとしない。
それにしてもこの小屋の中は暑い。河川敷にあるせいか、夏の容赦ない気温に加えて湿度がすごい。こんなところに一日以上も拘束されているというのに、まったく飲まず喰わずでいて、なお元気を失わないところをみると、この華奢な少女はその見た目にそぐわず、なかなかの体力の持ち主なのかもしれない。
「なんとかしろ、バルナバス」
焦りの混じった濁み声で叱咤しているのはリーデルだった。そういえば、この老いた老科学者も、白いタキシード姿の上に外套を羽織るという、かなり暑そうな服装をしている。なのに、汗ひとつかいていない。
「熱中症にでもなられたら、面倒だ。なんとか水だけでも飲ませろ」
リーデルはさらにバルナバスをせっついた。
「分かっているでゲス」
そう言いながら、バルナバスはまた 別の菓子を詩織の眼鏡の前にかざした。
「さあ、詩織ちゃん。これを見るでゲス」
バルナバスの愛想笑いに対して、詩織はあくまでふくれっ面だ。頬を膨らませて、その丸い顔をますます丸くしてバルバナスのかざす菓子に目をやる。その目つきもきつめだ。
「何なのですか、それは」
「美味しい棒チーズ味でゲス」
「そんなものはいらないのです!」
詩織は大きめの声でまたも拒絶してから、その後にこう言った。
「どうしても私の機嫌を取りたいのなら、松月庵の干菓子のいちばん高級なのを一年分くらい買ってきてほしいのです。そうすれば、ほんの少しは耳を貸してあげてもいいのです」
「松月庵?- 何でゲスか、それは」
「この近くにある甘味処なのです」
バルナバスは少し戸惑ったのか、少し黙ってから、リーデルの方へ顔を向けた。
「どうするでゲスか」
「仕方がない」
リーデルは不機嫌そうに、弛んだ頬を震わせる。
「それで気を向けてくれるというのなら、買いに行ってやれ」
「へい、でゲス」
バルナバスはこくりと首をさげると、小屋から出ていった。間もなくエンジン音がして、自動車の出発する音が聞こえた。
やれやれと思う。これで何とか餓死だけは避けられるだろう。と、そう思った矢先のことだった。
ごそり。
何か音がした。
――なんだ。
その音のした方へ、私は顔を向けた。
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