筋書き通りにやれば問題ないはずだ。
バルナバスに変装した晴彦は、隠れていた茂みから出てくる時に、そんなふうに自分を奮い立たせた。
筋書きと言っても、晴彦が頭の中だけで即興で考えたものだが、おそらく下手な運びにはならないはずだ。仮に問題が起きたとしても、詩織を救出するという目的だけは果たせるだろう。何より、警視である咲間が部下の警官を引き連れてきてくれているのが頼もしい。
安心できる理由を出来る限り頭の中に思い浮かべてから、晴彦は小屋の前に掲げられている看板を眺めた。
河川管理事務所資材置き場――。
そう書かれている。
晴彦は、踏み込む決心を固め、そしてできる限りの演技力を持って、小屋の中へ飛び込んだ。なるべく息を切らせたふりをして、慌てたふりをして。
小屋の中に飛び込むや否や、晴彦は叫んだ。
「警官が表に来ています!」
「なんだと」
そう低い声で言ったのは、白いタキシードを着た老人だった。そのタキシードの上にさらに表地の黒い外套をまとっていた。裏地は赤だ。
――暑くないのかよ。
と晴彦は余計なことを考える。
老人は素早く晴彦の顔を見た。頭を振った勢いにつられて、長く伸ばした白い髪が靡く。髪と同じく白い色をした眉は釣り上がっていて、憤怒の形相を浮かべているかのように見える。
――こいつがリーデルか。
晴彦は初めて見る国際手配犯を目の前にしてそう思った。
その憤怒を表しているような顔は、実はどうやらそれが常の状態であるらしい。老人はその表情のまま、
「ふん」
と鼻で笑った。
「何も慌てることはない。こっちには人質がいるのだからな」
そして、片手に持っていた杖の先を、部屋の真ん中にいる詩織に向けた。
詩織は縄で両腕と両足を縛られている。その背後に、あまり特徴のない人物が立っていた。誰だか分からないけど、きっとこの人物もリーデルの部下なのだろう。
小屋の壁がなぜか破れているが、何があったのだろうか。何が状況を突破するきっかけになるか分からないから、いろんなことを考えてしまう。
それにしても、今のリーデルの反応は好ましいものではなかった。
晴彦の思い描いていた筋書きでは、警官が来ていると脅すことでここから逃げ出すことを考えさせ、その際に詩織を晴彦が助け出す――というものだったのだが、逃げ出そうと考えてもらえなければ、筋書きが始まりさえしない。
「警官は五人や六人ではありません。百人か二百人はいるようです。早くここから逃げないと」
「何を焦っている、バルナバス」
相変わらず落ち着き払った様子で、自称ナチスの残党は言った。
「バルナバス?-」
――ああ。
今晴彦が変装している巨漢が、そのバルナバスという名前なのだろう。一瞬疑問を浮かべたものの、晴彦はすぐにそう悟った。
「そう、バルナバスです」
「何を言っているんだ」
リーデルは白い眉の間に皺を寄せて晴彦を睨む。
「それよりバルナバス、本当にそんな人数の警官が来ているなら、なおさらここにとどまった方が安全というものだろう。人質を連れて逃げるには、百人単位の警官を相手にしては辛すぎる」
脅して逃げたくなる気持ちを煽ろうと思ったが、逆効果になってしまったようだ。ち、と晴彦は小さく舌打ちをする。なんとかここから出る気にさせなくてはいつまでも詩織を救出することができない。しかも早くしなければ、本物のバルナバスが帰ってきてしまう。
ちなみに、本物が帰ってきた時、それが事前にわかるように、晴彦は手を打ってある。梨奈を河原の石のひとつに変装させて、表に待機させてあるのだ。もし本物が帰ってきたり小屋の外で何かあったら、携帯のバイブを鳴らして晴彦に知らせるようにしてある。
その報せがまだない。だから今は大丈夫だろうが、いつまでこの時間がもつかわからない。早く決着をつけなくてはいけなだろう。
「それが、警官は大勢来ているのですが、この東側は手薄になっています。だから、今のうちならその方向からだったら安全に逃げられるかと。だから今のうちに――」
そこまで言った時だった。
不意に、背後から気配がした。晴彦が振り返ると、そこには緑色の肌をした巨漢の姿があった。
正真正銘、本物の――。
バルナバスだった。
※
――無理じゃん。
とてつもなく窮屈で息苦しい空間の中で、梨奈は不満を爆発させていた。
晴彦があの巨漢に変装して詩織を連れ出すまでの間、小屋の外で石に扮して見張り役を任された梨奈だったが、石に扮するというのは案外難儀なものだった。
石と言っても、その材質はほとんど革と変わりはない。実際は何で作られているのか分からないが、手触りとしては革に近いと梨奈は感じていた。その革のような材質でできたものは丸い鞄のような形状で、外側には、まさしく石のような色彩と模様が施されているという代物だった。梨奈が入るほどの大きさだから石としてはだいぶ大きいかもしれないが、この中に入ってじっとしていれば、偽物の石であることはまず見抜かれないだろう。それが、この河原のように、石が一面に広がっている場所ならなおさらだ。
だから石に変装するという意味では最高の出来かもしれない。でも、致命的な欠点があった。
身動きができないのだ。
あまりに窮屈なこの〝石〟の中は、体を収めるだけで精いっぱいだった。何かあったら携帯を鳴らして晴彦に知らせるという手はずだったが、肝心の携帯に手が届かない。携帯はホットパンツの尻のポケットに入れてあるのだが、胎児のような姿勢でこの〝石〟の中に収まっている梨奈は、背後に手をまわすことができない。だから携帯を操作するどころか手に取ることさえ出来ないありさまなのだ。これでは外での異変を晴彦に知らせることなど到底できない。
――無理じゃん! どうすんのこれ!
声を出さずに不満を爆発させるが、どうしようもなかった。
そうしているうちに――。
見覚えのある巨漢が梨奈の目の前を駆け抜けていった。他でもない、詩織を誘拐した例の男だ。
――あ!
と思ったものの、身動きのできない梨奈にはどうしようもなかった。
今は調度、晴彦が詩織を救出するために、あの男に変装して小屋の中へ忍び込んでいる最中だ。そこへ本物のあいつが現れたら――。
※
「おおッ」
そう声をあげたのは詩織だった。眼鏡の奥の丸い瞳が、なぜか楽しそうに輝いている。
「バルナバスさんがふたりいるのです!」
呑気な感想だ。しかし晴彦としては楽しんでいる余裕はない。このドッペルゲンガー状態を何とかしなければならない。そこでとりあえず、
「誰だおまえは!」
と本物のバルナバスに向かって叫んだ。
「それはこっちの台詞でゲス。誰でゲスか、おまえは! 誰かにそっくりに思えるでゲスが」
――おまえだよ。
と晴彦は言いたくなるが何とか抑えた。
「お、俺はバルナバス田中だ」
晴彦がそう言うと、
「ああ、そうでゲス!」
とバルナバスが突然大声をあげた。
「誰かに似ていると思ったら、俺に似ているでゲス!」
――今さらか!
もしかしたら、この男――詩織を誘拐した時も感じたが――頭のネジが足りないのではないか、と晴彦は思う。
――いや。
すぐに思い直した。
逆だ。頭のネジはむしろ人より多いのだろう。だって――。
――額から二本突き出ているしな。
それはともかく、この程度の相手なら晴彦の相手ではない。言葉で煙に巻くくらいは簡単だろう。
「本物なら、リーデルさまの崇めるヒトラーの来歴を語ってみろ」
と晴彦は言った。
「まずはナチス党が滅びた年代だ。それがいつなのか言ってみろ」
「ええと――」
案の定、バルナバスは答えられない。
「正解は一九四五年だ! 次に、ナチス党のシンボルマークの名前を答えてみろ」
「ええと――」
バルナバスはまたも答えられないでいる。腕組みをしてその大きな頭をかしげている。
「正解はハーケンクロイツだ!」
晴彦はそう言うと、バルバナスに背中を向け、リーデルの前に片膝をついた。
「これでお分かりかと思います。奴はリーデルさまの崇めるヒトラーのことについては、何も答えられませんでした」
「そのようだな」
リーデルの嗄れ声が、頭の上から降ってくる。
リーデルはさらに言った。
「今のやりとりで、しかと分かった。おまえは偽物だ」
「え」
思わぬ返答に、晴彦は上を向く。リーデルは杖の先を晴彦の顔に向けていた。
「お、俺が本物の――」
「いいや、おまえが偽物だ」
「そんな、だってあいつは、ぜんぜん答えられなかったじゃないですか」
背後にいる本物のバルナバスを指さしながら、晴彦は懸命に訴える。だが、リーデルは意見を変えなかった。
「その通り。向こうのバルナバスはまるで答えられなかった。〝だからこそ〟おまえが偽物なのだ」
「どういうことですか」
「本物のバルナバスは、おまえが発したような質問に答えられるほどの知能を持っていはいないのだ!」
「なんだってえ!」
「だから、それらを知っていたお前は偽物なのだ」
知識をひけらかしたのが裏目に出ようとは思わなかった。
「それだけではないぞ」
リーデルはさらに言った。
「バルナバスは〝ゲス〟が口癖。しかしお前は、まだ一度も〝ゲス〟を口にしていない!」
リーデルは晴彦の横を抜けて本物のバルバナスの横に立ち、びしりと杖の先を晴彦にむけた。まるで、名探偵が真犯人を言い当てたかのような様子だった。正直いって、ちょっと格好よかった。
「しまった、でゲス」
「今さら遅いわ!」
――もう駄目だ。
晴彦は諦めた。当人同士でしか知らない事実を知らなかった晴彦の敗北だ。もうバルナバスのフリをするのは無理だろう。と言って、弱みを見せるわけにはいかない。あくまでも余裕のあるふりをして見せなければ、こちらに打つ手がないと見破られ、晴彦も捕まってしまうだろう。ここでミイラ取りがミイラになるわけにはいかない。それに、リーデルよりかっこいい場面を見せつけなければ立場がない。
打つ手をなくした晴彦は、窮地にありながら、あえて笑った。
「ふっふっふっふ」
「何がおかしい」
晴彦の笑いを不敵に感じたのだろう。リーデルが頬を震わせて叫んだ。
「バレてしまっては仕方がない」
晴彦は片手を首の根元に当てた。
今の晴彦は、バルナバスと同じ顔をしている。つまり緑色の肌と、顔つき、それから額から生えた二本のねじ。これらを再現しているのだ。ゴム製で、顔にぴったりと張り付く形の素材を使った特殊な面だ。友人からフランケンシュタインの変装の助言を求められていなければ、この用意はまずできなかっただろう。
その面を取ろうというのだ。
晴彦は首元に当てた手の指先でゴム製の面の縁を少し剥がした。
そこをきっかけにして、思いっきり剥がす。
「確かに俺はバルナバスじゃない」
べりべりと音がして、バルナバスの顔は取り払われた。
「武智探偵事務所所長代理、相馬晴彦だ!」
ゴム製の面を地面に打ち捨て、晴彦は名乗った。台詞が漢字ばっかりだが気にしない。
「貴様!」
「探偵でゲスと!」
「晴彦くん、格好良いのです!」
リーデルとバルナバスと詩織が、口々に晴彦に声をかける。
――決まった。
そう思った。顔の皮膚が多少ひりひりするのと痒みを帯びているのは、この際どうでもいい。それよりも、ゴムに覆われていた顔は汗で濡れていて、外気に触れて感じる冷たさがとてつもなく心地よかった。
続いて晴彦は、筋肉の質量を補うために着ていた厚着を脱ぎ捨て、背丈を補うために履いていた高下駄も足から外した。いつもの白いスニーカーに履き替える。
「貴様! どうやってこの場所を突き止めた!」
リーデルが杖を逆手に持って、顔の前に構える。
「簡単な話さ」
晴彦は、バルナバスの目撃証言が〝なかった場所〟を地図に赤く塗り、消去法でこの場所をあぶり出したことを簡単に説明した。
「さすがは天下に名高い武智探偵の弟子だな」
リーデルは口を歪めて不敵な笑いを浮かべた。
「だが――」
リーデルがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だからどうしたというのだ。こっちは三人。しかも人質をとっている。形勢は貴様の方が圧倒的に不利だぞ」
ふふふ、とくぐもった笑いがその歪んだ唇から漏れる。
そう、そこなのだ。この先の手を晴彦は考えていない。
――進退窮まったか。
晴彦は、じり、と一歩さがった。と、その時――。
ぎゃッと声が響いた。
背後からだった。驚いて振り返る。
すると、詩織の背後に立っていた人物が、血反吐を吐きながら倒れるところだった。一瞬何が起きているのか分からなかった。だが、血反吐を吐いて倒れたその人物の後ろに、厭になるくらい見覚えのある人物の姿があるのを見て、ようやく事態を把握した。
厭になるくらい見覚えのある人物。それは――。
「イサム!」
晴彦はその人物の名前を叫んだ。
「ふう」
イサムは息をついて、高く振り上げていた足を地面におろした。額に浮いた汗を、テーラードの袖で拭う。茶色に染めた、少し前髪が長めのマッシュヘアがさらりと揺れ、その前髪の合間から、切れ長の目がのぞいた。
つまり、イサムが高段蹴りを放ち、それを喰らって、詩織の背後にいた人物は倒れたのだ。
「イサム。どうやってここが分かったんだ」
晴彦は尋ねた。晴彦たちが詩織の居場所を推理している時、イサムはその場にはいなかったはずだ。
「なあに、簡単な推理だよ」
イサムは歯を白く輝かせながら言った。
「推理?-」
「そうさ」
にっこりとイサムは笑う。
「僕の推理はこうだ。まず、あの大男が銀行に押し入ってきた時、僕はその銀行にいた」
そういえばそうだった。あの第三国際銀行強盗事件の時、イサムは全国ネットで生中継をされ、その姿を日本中のテレビで流されているのだ。
「それで?-」
晴彦が続きを促す。
「それでね、彼はどうやら、地下から銀行を襲ったみたいなんだが、その時に作った地下道がまだ残っていたんだね。その中を通ってくればアジトに行き着くに違いないと、そう推理したのさ」
どうだい、見事な推理だろう――とイサムは得意げに髪を横に払う。
「それは、ぜんぜん推理とは言えないぞ」
それにしても、もし、それが本当なら、地下道を考慮していなかったバルナバスは大変な間抜けだということになる。
「見事な推理だ」
そう言ったのはリーデルだった。
――どこがだ!
しかし、今は惚けとか突っ込みとかを気にしている場合ではない。この状況を突破することが何よりも先決だ。そしてイサムが登場した現在、その状況は逆転したと言っていいだろう。なにしろ、イサムは強いのだ。さっきの高段蹴りも、単なる偶然で極まったのではなく、鍛え抜かれた技と肉体を持ち合わせているがゆえに極まったのだ。
「さあ、詩織ちゃん。ようやく自由になることができるよ」
イサムはそう言いながら、詩織の背後にしゃがみ込むと、その華奢な体を結んでいる縄を手際よく解いた。
「あ、ありがとう――なのです」
一瞬だけ嬉しそうな顔をした詩織は礼を言ったものの、どことなく気まずそうだ。立ちあがると、イサムから――たぶん故意に――顔を反らせ、もじもじと、その自由になった両手の指を絡ませている。喧嘩をしていたことを、まだ引きずっているのだろう。お互いに罵り合った相手に助けられたのだから、気まずいのも分からないではなかった。
「ふっふっふっふ」
リーデルが笑った。晴彦とイサムは、詩織を背後にかばってリーデルと向かい合う。
「たったひとり増えたところで形勢は変わらんぞ」
リーデルは低く唸るようにそう言うと、特異な巨躯を持つ部下に命じた。
「行け、バルナバス。こいつらを全員叩き殺せ」
「分かりましたでゲス」
巨体の持ち主が、ずしりと一歩踏み出す。しかしイサムもまた余裕の表情を崩さない。
挿絵提供は、リウム様。
「僕とやろうってのかい」
イサムはバルナバスに対して身体を斜めに構え、左右の拳を素早く交互に突き出して見せた。さらに、足を前後に軽く開いて、軽快に身体を弾ませる。臨戦態勢に入った証拠だ。
「フィオ仕込みの戦闘力を見せてやるよ。かかって来い」
「ちょこざいな奴でゲス」
大男のバルナバスは、片手を握ると大きく振りかぶって、その岩のような拳をイサムの顔面をめがけて振りおろした。
が、イサムはそれをたやすくかわした。腰を沈めて、バルナバスの拳の下へ潜り込む。拳はイサムの頭上で空を切った。
イサムはその低い体勢のまま、バルバナスの胴体に接近する。そして拳を、そのがら空きの腹部に叩き込んだ。
効かなかった。
バルナバスはびくともしない。空振りになった拳を戻すでもなく、拳を振り切った体勢のまま動きを止めている。そして、その体勢のまま、自分の腹部を拳で突いたイサムを眺めおろしている。
「今のは、もしかして攻撃でゲスか」
バルナバスは平気な口調でそう言った。
イサムはすぐに拳を引っ込めると、相手の巨体から降り注ぐ視線を見上げた。渾身の突きが効かなかったことが、さすがに意外だったらしい。イサムにしては珍しく、真剣な面持ちをしている。
「ぜんぜん効かないでゲス。さっさとくたばるでゲス」
バルナバスはふたたび拳を振るった。今度の攻撃は、速さを伴っていた。イサムは避けきれず、両腕でその攻撃を受けた。受けたから痛手は被らなかったものの、その力の強すぎるあまり、イサムは受けの体勢のまま、拳に押し切られて体ごと吹き飛ばされた。
イサムの体は宙に浮き、その後ろの壁に激しく衝突して地面に落ちる。ばらばらと埃が落ちて、イサムの頭に降りかかる。
「イサム!」
「イサムくん!」
晴彦と詩織は、すぐさまイサムの元へ駆け寄り、その体を揺すって声をかけた。
「大丈夫か」
「しっかりするのです!」
どうやら怪我はないらしい。しかし、吹き飛ばされた衝撃が強かったせいか、動きが鈍くなっている。これ以上はとても戦えないだろう。しかし、そんな窮地に付け込むかのように、バルナバスが近づいてきて、さらに攻撃を加えようと、今度は足を持ち上げた。この巨体に踏み潰されたら、まず命はない。
イサムはまだ立ち上がれない。
――逃げる!
そう判断した。が――。
出口には近づけそうになかった。この小屋には、本来の出入口と壁に穿たれた大きな穴があって、そのどちらからも出入りができるが、どちらから出ようとしても、前方を塞ぐ巨漢の攻撃をかわさなくてはならない。それはさすがに無理だろう。
一秒にも満たない短い時間でそこまで考えた晴彦は、近くにあった木の棒を手に取り、それを両手で握って思いきりバルナバスの体に叩きつけた。
木の棒が折れた。まるで発泡スチロールでできているかのように、木の棒は脆く砕け散った。それでも、バルナバスはやはり少しも痛手を負った様子を見せない。少しだけ、その黒いスーツが破れたくらいだ。
「無駄でゲス」
バルナバスの巨大な足が容赦なく地面に下ろされる。
晴彦はイサムの体を抱えて、渾身の力で飛び退いた。詩織も悲鳴をあげて、晴彦のあとに続くようにかわした。その直後、バルバナスの足は轟音を立てて地面を揺さぶった。
「すまない、晴彦。もう大丈夫だ」
イサムが正気を取り戻した。まだいくらかよろめいてはいるが、イサムは自力で立った。しかし戦える状態ではなさそうだ。それに戦えたとしても、この力と体格差では到底勝てないだろう。
――ここまでか。
晴彦は覚悟を決めた。
※
――どうして私は怒らなかったのだろう。
この窮地において、詩織はそんな疑問をずっと考えていた。
バルバナスは詩織を縛ろうとした時、「かわいい」と言っていた。その時、詩織は呆気に取られはしたものの、腹立たしい気持ちにはならなかった。
でもイサムと口論していた時は、
だって可愛いじないか――。
そう言われて、詩織はなぜだかカッとしてしまったのだ。
同じことを言われたのに、どうしてこうも心持ちが違うのだろう。それが不思議でならなかった。いくら考えてもその答えは分からない。でも――。
詩織は、目の前で繰り広げられている格闘へあらためて視線を向けた。
詩織を庇って、晴彦とイサムが、巨大な敵を相手に必死の抵抗をしている。
心の中にある矛盾はどうであれ、この状況を打開できるのは自分しかいないのではないか――詩織はそう考えていた。
それでも、イサムの言葉を思い出すと、こんな時でも腹が立つ気持ちになる。
眼鏡をはずすように言われたのはもちろん、それよりも、イサムが言った別の言葉が、詩織にとっては大変な屈辱だった。その言葉というのは、
設備がなければなんの発明もできないただの科学オタクじゃないか――。
というものである。確かにそうなのだが、当たっているだけに、なおさら悔しいのだ。でも――。
――そんなことはない。
詩織は〝今なら〟そう思う。
詩織は、自分がリーデルに放った言葉を思い出していた。
私は科学者として世界征服に協力するくらいなら、人間としてそれに反対して死んだ方がマシだと思っているのです――。
詩織はリーデルに向かってそう息巻いた。それは忘れていない。本心だからだ。
科学者としての誇りはあるが、それが人間としてあるべき姿を上回ってはならないと詩織は思っている。だから――。
詩織は決意した。
――科学者としての発明ができなくても、人間として最高の行動を取ってみせるのです!
そのためには人前で全裸になることも厭わない。仲間を助けるためだからだ。そして、単なる科学オタクではなく、人間としての感性を持ち合わせていることを、イサムに見せつけてやるのだ。
詩織はそれを実行に移した。
※
――どうすれば逃げられる。
晴彦は息を切らせながら、それでも必死にここから逃げる手はずを考えていた。
目の前を塞ぐ大男は、殴ろうが蹴ろうがびくともしない。そればかりか、少しでも攻勢を緩めようものなら間を詰めてくる。
晴彦は鉄の棒を両手で構え、バルナバスの動きに目を見張る。イサムも、徒手空拳で戦闘態勢を取りながら、バルナバスの動きに注意を向けている。しかし晴彦もイサムも、すでに疲れ果てていた。バルナバスの攻撃を防ぐかかわすかがやっとと言った状態だ。晴彦とイサムだけなら突破して逃げられないこともないかもしれないが、問題は詩織だった。詩織を庇いながらの前進撤退は厳しいものがある。
打つ手がなかった。
バルナバスが、その丸太のような腕を振りあげた。強烈な一撃が叩き込まれる。晴彦はそれを喰らわないように神経をその拳に集中させた。その時――。
「やめてほしいのです!」
晴彦は脇に衝撃を受けて、少し横へよろめいた。晴彦と並んでいたイサムも脇を押されて、晴彦の反対側へよろめく。
ふたりの間から――。
詩織が姿をあらわした。
バルナバスの動きが止まった。
詩織は片手の指で眼鏡の弦を摘むと、顔を振って、勢いよく眼鏡をはずして投げ捨てた。
「お願いだから、乱暴はやめて欲しいのです。バルバナスさん、お願い♥」
詩織は語尾にハートマークをつけると、唇の片端から舌をぺろりと出し、片目を瞑って、満面の笑みを浮かべた。まるで大量の向日葵がいっぺんに開花したかのような笑みが顔じゅうに広がる。おまけに詩織は、胸の前で両手の指を合わせてハートマークを作り、さらに腰をちょっと横に突き出してみせた。白と水色の縞模様があしらわれた短いテニススカートが、ふるん、と揺れる。
今まで見たことのないその詩織の姿に、晴彦も、そしてイサムも思わず動きを止めてしまった。瞬きもできないほど、その姿は目を引くものがあった。そしてバルナバスはというと――。
赤くなっていた。
緑色の肌を赤く染めて、拳を振り上げた体勢のまま固まっている。その視線は、遺憾なく詩織に注がれていた。
紅潮して動きを止めたバルナバスに、詩織は言った。
「バルナバスさん。悪いことをして世界征服をしようとしても、人はついてこないのです。力による征服、つまり〝覇道〟で国を治められた例は希で、だいたい暴君というのは倒されてしまうのです。人が付いていくのは、力ではなく徳による統治、つまり〝王道〟を行う人なのです。王というのは、力だけでなく、信頼がなくては務まらないものなのです。だからバルナバスさん」
「はい、でゲス」
バルナバスはすっかりその凶暴性を削がれている。
「バルナバスさんにも、そんな徳のある人になってほしいのです。そうすれば私はバルナバスさんの――」
お嫁さんになるのです――と詩織は言った。
「ええええッ」
晴彦は思わず声をあげる。
「そんな馬鹿な」
イサムも呆れ顔をつくってようやく声を出したような様子だ。
しかし詩織は、そんな二人の反応などまるで無視するかのように、
「だからお願い、バルナバスさん♥♥♥」
まるでラノベのようにハートマークを乱用した。そして右手を腰にあて、左手を額のあたりへ持っていき、そこで横向きのピースサインをつくる。最後にきらりと、二回、片目でウィンクをして見せた。
「乱暴はやめて♥♥♥♥♥♥」
「改心したでゲエエエエエエエス!」
バルナバスは敗れた。詩織の笑みの前に。
「バルナバス! 何をやっている! こんな奴ら、早く倒してしまえ!」
焦りを見せたのはリーデルだった。この逆転劇は予想もしていなかったことだろう。リーデルは杖を振りあげて、詩織に向かって土下座をしているバルナバスに怒声を浴びせるが、バルナバスは意思を変えなかった。
「俺はこれから自首をして罪を償い、それで善いことをたくさんして――」
詩織ちゃんと結婚するでゲス――とバルナバスは言った。顔面の肌がますます赤くなる。
「おのれ、この役立たずめ!」
リーデルは、その白いタキシードのポケットから、何やら装置を取り出した。
「貴様のような奴は、木っ端微塵にしてくれるわ」
リーデルの取り出した装置が何に使うものかは判然としないが、その台詞から、バルナバスの命を左右するものであることは察することができた。
「させるか!」
とっさに動いたのはイサムだった。
イサムは大きく跳躍すると、バルナバスの巨体を飛び越え、その向こうにいるリーデルの胸元に、足から突っ込んだ。
リーデルは装置を投げ出し、仰向けに倒れる。イサムはその動きの流れのままリーデルの胸の上に馬乗りになり、拳を勢いよく突き出した。が――。
その拳がリーデルの頬に当たることはなかった。イサムの拳は、寸止めにされている。
「自首しろ。そうしなくては僕がおまえを退治するぞ」
抵抗できなくなったリーデルは、仰向けに倒れた体勢のまま、
「ぬううう」
と悔しそうに唸っていたが、やがて、
「これで終わったと思うなよ。いつか、いつか必ず復讐を果たしてやるからな」
声と頬を震わせてそう言った。そして最後に、
「覚えておけよ、武智探偵事務所おおおおお!」
と、ひと声絶叫し、そして気を喪った。
いろいろと大掛かりなこともあったが、ようやく――。
事件は解決した。
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