相変わらず、重たい雰囲気がふたりの間には満ちていた。
武智探偵事務所の応接室である。机を挟んで向き合っているイサムと詩織は、それぞれ腕組みをしてソファに座って背中を反らせている。ついでに、お互いに視線を合わせないようにするためか、顔を横に向けている。さらには足を組んでいる。
一見仲が悪いように見えるが、ふたりはまったく同じ姿勢を保っている。もう示し合わせているとしか思えないほどの同調っぷりだ。
そんなふたりの雰囲気に飲まれるのはごめんだから、晴彦はひとりでテレビに目をやっている。イサムと詩織が座っているソファと〝コ〟の字型になる位置のソファに晴彦は座っている。テレビから流れているのはニュース番組だった。国際指名手配犯が捕まったというニュースだ。
リーデルとバルナバスが逮捕されてから、数時間が経つ。あの格闘劇のあと、彼らを逮捕したのは、茂みに隠れていた咲間とその部下たちだった。目上の人間から、けっこう褒められたという連絡がメールで入っているのを、晴彦は確認している。
――咲間警視は人柄もいいし。ああいう人に警官にはなってもらいたいな。
と晴彦は思う。
そう思うし、それは本心なのだけど、そういうことを考えることで、この場の重たい雰囲気から逃れようという意図もあった。しかし、所詮は〝逃げ〟だ。いくら何を考えようが、この場の雰囲気は変わらない。
――まったく。
晴彦は髪をかき回した。
「それでさ」
雰囲気を打破するために、晴彦は口火を切った。
「なんで、またそうやって仲が悪いんだよ、ふたりは」
イサムは詩織を助けたし、詩織もまた、あの窮地を逆転する芝居をやってのけた。協力し合って仲直りしたものだとばかり思っていたけど、報告書を書くために事務所へ帰ってきてからというもの、この有り様だ。
「僕は悪くないぞ」
とイサムがそっぽを向いたまま言った。
「それを言うなら私だって悪くないのです」
と詩織もまた、そっぽを向いたまま同じことを言う。
「いや――」
良いとか悪いとかいう話ではないのだ。
「とりあえず、ふたりとも何で怒ってるのか話してみてくれよ」
なるべく柔らかい声で晴彦は促した。
「だって――」
まず口を開いたのは詩織だった。
「私が誘拐されてその捜索を晴彦くんたちがしている時、イサムくんはあの銀行のお姉さんのところへ行っていたのです。私の命よりも、まだ会ったこともない女性に会うことを優先したイサムくんは、ひどい冷血漢なのです」
それは、晴彦も同感だった。あの時、なぜイサムは銀行へなど行っていたのだろう。晴彦はその理由をまだ聴いていない。
「なんで銀行へ行ってたんだ」
晴彦もイサムに質問した。
「だって、しょうがないじゃないか」
イサムは腕組みを解いてその切れ長の目を晴彦に向ける。
「僕には、いっぺんに複数の女性を愛するような真似はできないんだ」
「まったく何を言っているのか分からないぞ」
「晴彦は鈍感だなあ」
イサムは呆れたといったふうな表情で顔を左右に振るが、それはイサムの話が飛躍しているせいなのではないかと晴彦は思う。
「いいかい」
イサムはまた晴彦を見据えた。
「まず、僕が銀行へ行っていた理由を話すよ。それはなぜかと言うとね――」
茜ちゃんに逢いに行くためだったのさ――とイサムは言った。すかさず詩織が割り込む。
「ほら、やっぱりそうなのです! 私のことなんかどうでも良くって、それで写真で顔を見ただけの女性のところへ行っていたのです!」
詩織は人差し指をイサムに突きつけて、声を限りにイサムを非難した。
「そうじゃないよ!」
とイサムも負けじと言い返す。
「僕がなんで茜ちゃんに逢いに行っていたかって言うとね――」
お付き合いを断るためだったのさ――とイサムは行った。
「え」
「どういうことなのですか」
晴彦と詩織は、同時に疑問符を投げかけた。
「どういう意味って、そのまんまの意味だよ」
イサムは不貞腐れたかのように口を尖らせる。
「茜ちゃんは僕にひと目惚れをして、付き合いたいとまで言ってくれた。僕もそれは嬉しかった。だけど、詩織ちゃんが誘拐されたと聞いたら、僕はそれを放ってはおけなかった。でも、そのまま詩織ちゃんを助けに行ったら、僕は茜ちゃんと詩織ちゃんの二人を同時に愛することになってしまう。だから、詩織ちゃんを助けに行く前に、まずは茜ちゃんのところへ、お付き合いするのは無理だということを告げに行っていたのさ」
きちんとしているというべきか、潔癖と言うべきか分からないけれども、一刻を争う事態の時に愛のあり方について考えているのはどうかと思う。が――。
「そうだったのですか」
詩織は不貞腐れた表情を顔から消して、丸い目を瞬かせながらイサムの顔に目をやっている。この表情は――。
――納得しているに違いない。
そう晴彦は推察した。
「そんなことを考えていてくれたんて――」
嬉しいのです――と詩織は言って下を向き、テニススカートから伸びる白い足の間に両手を挟んでもじもじとしている。
晴彦は、自分の推察が確信に変わるのを実感していた。
イサムの美学もまったく理解できないわけではないし、何より結果的に詩織が無事であったことと、当の詩織が納得しているのだから、まあ良いか、と思う。
「で――」
晴彦は、今度はイサムの心情を質した。
「イサムは、なんで不機嫌なんだよ」
「決まっているじゃないか!」
イサムは声を荒らげてそういうが、何も決まっていないと晴彦は思う。
「だって詩織ちゃんは、僕がお願いしたことを、あの化け物の前ではやったんだ。僕なんかどうでもいいと思われているっていう証拠じゃないか。それが頭にきているんだよ」
「〝お願いしたこと〟?-」
晴彦はさらに質問を投げかける。そうさ――とイサムは言った。
「眼鏡をはずしてほしいっていうことだよ!」
とイサムは言った。
――ああ、そういえば。
そんなことを言っていたな、と晴彦は思い出す。もともと、それが元で詩織が〝性的な暴力を受けた〟と訴え、それから二人の仲は剣呑になってしまったのだ。
「僕がお願いしても聞いてくれなかったことを、どうしてあの化け物の前ではやったんだい」
イサムは身を乗り出して詩織に詰め寄る。
「それは――」
イサムの本心を知って意気を失っていた詩織だったが、また火がついたように目を釣り上げた。
「イサムくんが私を馬鹿にするから、見返してやろうと思ったのです」
「馬鹿にする?- 僕がいつ、詩織ちゃんを馬鹿にしたっていうんだい」
「だって、イサムくんは私に言ったではないですか! 〝設備がなければなんの発明もできないただの科学オタクじゃないか〟って」
「ああ」
イサムは一気に勢いを失った。あの言葉はきっと売り言葉に買い言葉という奴で、イサムとしてもつい言ってしまった、というところだろう。本気でそんなふうに詩織を馬鹿にしたというわけではないはずだ。第三者である晴彦にはそれが分かるが、言われた本人である詩織としては、それを真に受けてしまったのだろう。
勢いを失ったイサムに対して、詩織は追い打ちをかける。
「私は科学者である前に人間なのです。だから科学的な発明はできなくても、人間として最善の行為が出来るということを、あの場では証明したかったのです」
「人間として最善の?-」
晴彦が問いかける。そうなのです――と詩織は答えた。
「前にも行ったとおり、眼鏡は私にとってもはや体の一部も同然のものなのです。それをはずすということは、人前で全裸になるのと同じことなのです」
それは意識しすぎだと晴彦は思うが、とりあえずは否定せずに詩織の話を聞くことにした。
「つまり、あの場面で人間として最善の行為は、たとえ眼鏡を外しても――つまり全裸になってでも、仲間を助けるために敵から戦意を奪うことだと判断したのです」
「でも、詩織ちゃんはあいつと結婚するって」
「そんなの嘘に決まっているのです。ああでも言えば、あの男も言うことを聞くだろうと思ったから、でまかせに嘘を吐いただけなのです。私の好きな相手は、あくまでイサ――」
言いかけて、詩織は急に言葉を止めた。そしてその丸い童顔をいくらか赤らめて、話を反らせた。
「ついでに言うなら、あの時の私の行為だって、科学的な発明なのです」
「あの笑顔と台詞が?-」
「そうなのです。人間の持つ根本的な欲求を分析した上での、科学的な対処法だったのです」
晴彦の質問に、詩織はそう答えた。あやうく恋心をぶちまけてしまいそうになった詩織は、それとは別の方向に話が進んでいくことを強く願ったのだろう。そう説明した詩織は、いつもより早口だった。
「あれこそ、私の最大の発明――『ブラックキューティーエンジェル★詩織ちゃん』なのです」
今回は聞かずに済むと思っていた〝発明品〟の名前を、ここに来て聞かされるとは思わなかった。しかも自分でキューティーと言うあたりが詩織の詩織たる所以だ。
「じゃあ、僕らを助けるために眼鏡を外したのかい」
「そうなのです」
イサムが確認すると、それを詩織は認めた。
「あの男が好きだったからじゃなくて?-」
「当たり前なのです!」
「そっかあ」
イサムはどこか安心したかのように、意気を吐いて肩の力を抜いた。
どうやら、これでこのふたりの仲も元に戻りそうだ。ようやくこれで、万事解決といったところか。
そう思ったが、晴彦の心の中には、何か寂しいものがあった。何かとんでもなく大切なことを失念しているかのような、そんな感覚だった。
※
――いつまでこうしていればいいの。
すでに夜は更けている。昼間から石に扮装したまま身動きの取れなくなっていた梨奈は、まだ河原で石の役をやっていた。
やっていたというか、自分だけでは身動きができないから、じっとしているしかなかった、というのが正確なところだ。
思うに、だいぶ時間は経っているし、昼間はなんだかいろんな人の姿が見られたが、今はそれらの影はまったく見えない。音も聞こえない。聞こえるものといえば、川を水が流れるさらさらという音だけだ。街灯もないから、夜の更けた現在ではほとんど視界も効かない。
思うに――。
――すでに事件は解決したのではないか。
そう思う。そして、自分は忘れられているのではないか、とも思う。
――そうだ。きっとそうに違いない。
そう確信した詩織は、腹の底から叫んだ。
「晴彦の馬鹿あああああああああああああッ!」
夜の川原に、梨奈の声が響き渡った。
(了)
当サイト内に掲載されている画像・小説の著作権は、(一部例外が明記されている場合を除いて)全て提供者(製作者)様に帰属します。
当サイト内に掲載されている画像・文章の無断転載を禁じます。
当サイトに掲載されているすべての内容は、実在する人物・団体とは一切関係はございません。