――なんで、そこにいるんだよ。
テレビ画面には、強盗の襲撃を受けたという第三国際銀行の内部の様子が、防犯カメラを通して映されている。
梨奈に指摘されてあらためて画面を見た晴彦は、そして頭を抱えたのだった。
画面には、あろうことかイサムが映っていたのだ。
つまり、イサムは現在、人質に取られている状態だということだ。
詩織誘拐事件という緊急事態に、どうして事務所に来ないで、こともあろうに第三国際銀行なんかにいるのだろう。そう思ったが、もう一度よくよく画面を見てみると、なんとなくその理由が分かったような気がした。
イサムは両手を広げて、画面中央に映る巨漢の犯人に正面を向けている。そしてそんなイサムの背後には、女性がひとり隠れていた。長い髪を垂らした、か細い女性だった。後ろ姿だが、服装から銀行の職員だということはわかる。
――あいつ、まさか。
第三国際銀行には、梨奈の友人である安藤茜という女性が勤めているらしい。そしてイサムとその茜という女性は、まだ直接顔を合わせているわけではないが、どうやらお互いに気に入っているみたいなのだ。そしてイサムは、そんな茜に会いたがっていた。
イサムはちょっと用があるとか言って、どこかへ行ったみたいだよ――。
イサムがここにいない理由について、梨奈はそんなことを言っていた。
ちょっと用がある――その用というのが、茜に会いに行く、ということだったのではないか。そう思う。
だとすれば、とんだ冷血漢だ。茜にはいつでも会いに行くことはできるが、詩織の誘拐については今すぐにでも解決しないと、下手をすれば取り返しのつかないことにもなりかねないからだ。
優先順位を間違えるにも程がある。若干の怒りを覚えつつも、晴彦は続けて画面を見続けた。
巨漢の犯人は、画面の中を行ったり来たりしていたが、やがて画面から消えていった。銀行から外へ出たのではなく、奥の方へ行ったと見える。地下から襲撃したというから、襲撃する際に、きっとなんらかの機械を使ったに違いない。その機械の元へ向かったのだろう。
犯人がいなくなったので、画面からも緊迫感はなくなった。晴彦はほっとすると同時に、さきほど覚えた怒りを思い出し、携帯を取り出してイサムに繋いだ。
呼出音が鳴る。その間も腹が煮える思いだ。
やがて、ぷつ、と音がして、
「やあ、晴彦。どうしたんだい」
イサムの陽気な声が聞こえた。
「どうしたじゃない!」
まず怒鳴った。怒鳴らずにはいられなかった。
「何やってんだよ、そんなところで!」
「そんなところ?- 僕がどこにいるか分かるのかい」
「分かるも何も、全国ネットで生中継中だ!」
「いやあ、照れるなあ」
まるで罪悪感を感じていない様子に、さらに腹が煮える。
「詩織がどうなってもいいのか!」
「そんなわけないじゃあないか。僕は一刻も早く詩織ちゃんを救出したいと思っているのさ」
「だったら早く事務所に来いよ!」
「何を言っているんだい。詩織ちゃんを助けたいから、まずはここへ来たんじゃあないか」
「はあ?-」
よく意味がわからなかった。
「あのな――」
さらに苦言を呈しようとしたところで、横から携帯をひったくられた。
ひったくったのは梨奈だった。梨奈は電話越しに叫ぶ。
「イサムくん?- 強盗犯は、詩織を攫った犯人だったでしょ。何か言ってなかった?-」
「何か?-」
わずかだが、通話口からイサムの声が漏れて晴彦にも聞こえてくる。ううん、という何か考えているかのような唸り声が聞こえたあと、イサムは犯人が口にしたらしい言葉を言った。
「トイレはどこにあるのかって言ってたかな」
「そんなことはどうでもいいの!」
梨奈が般若のような顔で大声をあげた。怖い。思わず身が固まる。
「何か手がかりになるようなことを言っていなかったかって聞いてるの!」
それでも、通話口から聞こえてくるイサムの声は相変わらず呑気な様子だ。
「そういえば、ディートなんとかって言ってたかな」
ええと――とふたたび唸り声がして、イサムはさらに言った。
「ディートフリート・リーデルシュタイン――だったかな」
「なんだって!」
イサムの言葉に反応したのは、咲間だった。咲間にも聞こえていたらしい。
普段は童顔ににこやかな笑みを浮かべている温和な警視だが、その瞬間の顔つきは、まさに警察としての厳しい表情だった。
「ちょっと貸して」
咲間はそう言いながらも、ほとんど奪い取るような形で、梨奈から携帯を受け取った。そして早口で言う。
「殿下! 今のは本当ですか」
イサムは日本の日常に溶け込んではいるものの、その身分はフィオ王国の第四王子という身分だ。だから咲間は、普段からイサムのことを殿下と呼び、かつ敬語で話す。
「あ、咲間警視。本当だよ。あの大男は確かにそう言っていた」
「そう、ですか」
咲間の表情が、いつになく険しい。
「ありがとうございます、殿下」
そう言って、咲間は勝手に通話を終えてしまった。そして力のない様子で携帯を晴彦に返すと、
「大変なことになった」
そう言って、手近にあったソファにずっしりと身を沈めた。晴彦はその咲間の表情に、さすがに違和感を覚える。
「どうしたんですか、咲間さん。イサムの言ったディートなんとかっていうのが、なんだか知っているんですか」
咲間はソファに沈んで項垂れたまま、知っているなんてものじゃないよと言った。
「ディートフリート・リーデルシュタイン。それは――」
国際指名手配犯だ――と咲間は言った。
※
いきなりとんでもない規模の言葉が飛び出したから晴彦は一瞬泡を喰ったが、とりあえず咲間の話を聞くことにした。梨奈とふたりで、咲間の対面にあるソファに腰をおろす。
「国際指名手配って、そのディートなんとかっていう人はそんなに大物なんですか」
「ああ」
咲間は敗北感に満ちた表情様子で、首をこくりと前へ傾けた。
「ディートフリート・リーデルシュタイン。年齢は七十歳前後。ナチスの残党にして、世界征服を目論むマッドサイエンティストだ。世界中の警察で、彼の名を知らないものはない」
「ちょっと待ってください、咲間さん」
梨奈が割り込んだ。
「ナチスって、あのヒトラーが率いた国家社会主義ドイツ労働者党のことですよね」
「そう」
「だとすると、おかしくないですか。だって――」
梨奈は、視線を斜め上にあげる。記憶をたどっているのだろう。
「ナチス党が滅びたのは、確か一九四五年です。そして今が二0一七年です。つまり、ナチス党が滅亡してから、今年でおおよそ七十年が経つことになります」
「うん」
「それで、そのディートなんとかっていう人は、現在七十歳前後なんですよね。だとしたら、年齢が合わないじゃないですか。現在七十歳前後なら、ナチス党が滅んだ時点で、ひょっとしたらまだ生まれてさえいないかもしれないのに、その残党って、おかしいじゃないですか」
「そう、おかしいんだよ」
咲間の声が、一段と力のないものになる。
「どういうことなんですか」
と梨奈は詰め寄る。
「あのね、梨奈ちゃん。私もそのへんのことはよく分からないんだ。そのナチスの残党というのは、彼が〝自称〟しているだけだからね」
「自称?-」
晴彦も、思わず声をあげた。自称とは何事かと思う。
「なんでそんなことを〝自称〟するんですか」
「私が聞いた限りだとね――」
そう名乗れば格好良いと思ったから、らしいよ――と咲間は言った。
――なんだ、その理由は。
今、この場においてイサムよりも頭を抱えたくなる人間の話を聞くことになるとは思わなかった。しかもその男は、詩織を誘拐した犯人の後ろにいるかもしれないのだ。
――面倒臭い事件だな。
いろいろな意味で――と晴彦は息を吐く。
「それで、本当のところ何者なんですか、その老人は。とぼけてるように聞こえますけど、国際手配されているところを見ると、ただ者ではないですよね」
「そう。彼はただものではないんだ」
そして咲間は、自称ナチス残党の老人にまつわる話をいくつか語りはじめた。
「はじめに彼の名前が知れ渡ったのは、もう十年ほど前のことだ。彼はドイツで、ヒトラーの複製人間を造るために、女性を誘拐して強制的に妊娠させるという計画を立てていた」
「やだ」
梨奈が眉をひそめる。咲間は続けた。
「そして、女児を誘拐するためにチョコレートを使うことを考えた彼は、そのチョコレートを万引きすところを見つかって逮捕された」
「なんですか、それは」
「その次はイタリアだ。彼はナチス党の復活を目論んで、大量のちらしを印刷した」
「イタリア?- ドイツじゃなくて、ですか」
「うん。ドイツ国内では現代でも、ナチス式の敬礼をやっただけで逮捕されてしまうくらい、ヒトラーもナチスも忌避されているんだ。だから、むしろドイツ国内では難しかったんだろうね」
「なるほど」
「それで彼は、ナチス党のシンボルマークであるハーケンクロイツの印を、そのちらしに描きこんだんだ。でも、そのハーケンクロイツを間違えてしまったんだね」
「間違えた?-」
「そう。ほら、ハーケンクロイツっていうのは、アルファベットの〝S〟の字をふたつ、直角に交わらせたような形をしているでしょ」
言われて、晴彦はそれを頭の中で想像する。咲間の言う通りだ。角張った〝S〟の字を交差させたのがハーケンクロイツだ。
「ところが彼は、その〝S〟を反対にしてしまったんだね」
「反対というと」
「うん。つまり、日本でお寺の地図記号として使われている〝卍〟というのがあるでしょ。あれにしちゃったんだね」
「なんですか、その誰もが一度は考えるようなネタは」
梨奈は目を半開きにしている。呆れているのだろう。
それにしても〝ネタ〟ではないだろうと晴彦は思う。ネタっぽいけど。
「ネタじゃないんだよ、梨奈ちゃん」
と咲間は言った。
「どうやら、彼は本気だったらしい。それで、印刷してからその失敗に気づいた彼は、せっかく刷ったそのちらしを、やけになって街中でばらまいて捨ててしまったんだね」
「それで?-」
「不法投棄で逮捕された」
「またですか」
「それから――」
「まだあるんですか」
晴彦の問いかけに、咲間はうん、と頷く。
「彼は育毛剤を発明しようとしていたんだね」
「育毛剤?-」
いきなり思ってもいなかった言葉が出てきたので、晴彦はつい頓狂な声をあげてしまった。
「そう。かれは髭の生えない体質なんだね。そうすると、ほら、ヒトラーの代名詞みたいな、あの口髭が作れないでしょ」
「その髭を作るために育毛剤を?-」
今度は梨奈が訊いた。そう、と咲間は頷く。
「それで、一応育毛剤を完成させたらしい彼は、その効果を動物実験で試そうとした。でも駄目だったんだ」
「失敗だったんですか」
「失敗かどうかもわからなかったんだ。なぜかっていうと、動物実験って言っても、だいたいの動物は身体じゅうに毛が生えてるでしょ。だから育毛剤の効果が試せないと分かったんだね。ブリーダーから犬を引き取ってから」
「それで?-」
晴彦は続きを促す。
「犬を捨てて、その犬が人を噛んだんだ。それで、飼い主としての責任を負わなかったとしてまた逮捕された」
「ちょっと待ってもらっていいですか」
梨奈は手のひらを咲間に向けた。
「あの、お話しを聞いている限り、どうしてそれで国際手配されるか分からないんですけど」
その通りだ。国際手配までするほどの大犯罪者という印象は受けない。
「確かに、いろんな罪は犯しているのかもしれないですけど、そんなに大きな罪じゃないじゃないですか。なんというか、犯罪者というよりは、ただの迷惑おじさんっていう感じしかしないんですけど」
「そうだよ、梨奈ちゃんの言うとおりだ」
咲間は、我が意を得たりとばかりに、梨奈を指さして、頷いた。
「彼は迷惑な人間なんだ。それはもう、とてつもなく迷惑なんだよ」
だからこれ以上面倒くさい真似をさせないために、世界じゅうの警察が彼を睨んでいるのさ――と咲間は言った。
「だからね」
咲間は再び項垂れる。
「そんな奴が日本に来てしまったというのが、我々警察としてはとてつもなく面倒くさいんだよ」
なるほど。だから咲間は元気をなくしていたのだろう。決して恐れていたのではないのだ。ただひたすら面倒臭くて厭になっていたのだろう。
それにしても、今回はいくら面倒だからといって、それを無視するわけにはいかない。なにしろ、詩織を誘拐した犯人の後ろに、そのキーボードで名前を打つのが面倒くさくて、つい変換アプリに辞書登録をしてしまいたくなるような長い名前を持つ老人が控えていると推測されるからだ。
――仕方がない。
晴彦はソファから立ち上がった。
「どうしたの」
梨奈が見あげてくる。
「今回は俺の得意技を存分に発揮してやろうと思う」
「得意技?-」
「そう」
変装と、声帯模写さ――と晴彦は言った。
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