相馬晴彦は建物の陰からわずかに顔を覗かせて、一人の男を視界に捉えた。
もうすっかり暖かくなってきたというのに、トレンチコートを着込んで人ごみに紛れる男の姿。サングラスは掛けていないが、マスクをして顔の半分を隠している。
晴彦が追いかけている犯罪者――宝石密輸犯の三柴であった。
数日前の午後、武智探偵事務所に一本の電話が入った。それは都内のある老舗の名門高級宝石店から奴を捕えてほしいという依頼であったが、相変わらず忙しい所長に代わり、晴彦が請け負うことになったのだ。
(ん? 大通りから外れたな)
急に人気のない道へと進む三柴。その先で看板の字が薄れ、何屋かもわからない古びた店に入っていく。晴彦もすかさずそこへと入り込んだ。
――が。
「……いない?」
瞬間、ガッと後頭部から衝撃が直接伝わり、脳へと響いた。
次に見えた景色は床の色。そして暗闇。
どうやら気付かれていたらしい。晴彦は内心舌打ちをすると、意識を手放した。
挿絵提供は、72芽かん様。
「……さて。今回の取引も無事に済んだが、あのガキはどうしたもんか」
(誰がガキだ! って、ここは……?)
男の声で目が覚め、晴彦は悪態を吐きながらも辺りを確認する。
目の前には木目を晒した板の壁、部屋全体は広くも狭くもないが少し陰気くさい一室。家具はなく、ただ端に置かれた木箱にロープや懐中電灯など、刃物を除いた道具が詰め込まれていた。
三柴はいない。声は隣室からしたようだ。
ドアから視線を外し、残る窓を見る。ガラス越しには木々ばかりが見え、都会にはない静けさに紛れて、時折小鳥のさえずりが聞こえてくる。
ここは山小屋、だろうか。取引を終えて戻ってきたのなら、三柴の拠点に違いない。
晴彦はその床に猿轡をされた上、体を縛られて転がされていた。
(これじゃ、皆にも連絡は取れないな)
スマホは当然のごとく取り上げられている。そもそもこんな場所で電波が届くのかどうか。
幸いなのは、単独犯らしく三柴一人の気配しかしないこと。そして足は自由に動くことだった。
「こんなガキ一人ならいっそ消しても問題ないか? いや、でもどこかの組織の下っ端ってことも……」
ぶつぶつと呟かれる処遇の候補が、少しずつ物騒なものになっていく。山の中であれば、人一人を処分するのは簡単だ。問題は三柴にとって、晴彦を生かしておくかのがいいのかどうかであって。
(なら、早めに動かなきゃな……)
晴彦はそっと顔を上げ、もう一度窓を見つめた。
後をつけていた青年を気絶させ、連れてはきたもののどうするか。三柴はいまだに悩んでいた。
ただの大学生であれば山中に捨ててしまえばいいが、どこかの組織の手先であれば、下手に処分するのは考え物だ。
そう思い、頭に手を当てた時。パァン! とガラスの割れる音が響き、三柴ははっと体を強張らせた。
今はたった一人で動いているが、犯罪は金額が跳ね上がれば跳ね上がるほど、規模が大きければ大きいほど組織が絡んでくるものだ。ましてや三柴がしているのは宝石の密輸。金額も相当で、海外からも国内からも目を付けられる可能性がある。
三柴はいつもその影に怯えていた。
「ここか。奴が隠れているのは」
「っ!」
警戒している内に、今度は野太い声が小屋に響く。隣の物置から聞こえたが、そこに転がしている青年は喋れないはずであるし、声も一度聞いている。
とすると、割れた窓から覗き込まれている……?
あるいはもう、侵入されて……。
「ちくしょう、誰だ!」
三柴は懐からナイフを取り出し、ドアに耳を引っ付けて様子を窺った。だが、何の声も物音も聞こえない。
「くそっ!」
痺れを切らした三柴は、そのままノブを掴み、部屋へと突入した。
そこには転がった青年と、見知らぬ男が待ち構えているはず……だった。しかし、三柴を迎えたのは青年、つまり晴彦によるみぞおちへのパンチだった。
「ぐぶっ!?」
ドアの真横にぴたりと体をつけていた晴彦の位置は死角となっており、隙ができてしまった。次いで古い懐中電灯が頭に振り下ろされる。迷いのない攻撃を、正面の敵を警戒していただけの三柴はまともに食らってしまう。
「な、なぜ……?」
突っ伏したままこぼした、弱々しい三柴の問い。
晴彦が何故動けているのかといえば、自由な足で物を挟んで投げ、窓ガラスを割り、その破片で素早く縄を切ったからだ。
何故晴彦しかいないのに野太い男の声がしたのかといえば、それが晴彦の特技であったからだ。
どこかの組織の下っ端。そのキーワードを聞いただけで晴彦は三柴の不安を見抜き、最善の行動を取ったのだった。
三柴は答えを聞く間もなくがくりと気を失い、晴彦は転がったナイフを拾う。あとは説明するまでもないことだろう。
晴彦が外に出ると、やはり草木の生い茂る山奥の景色が広がっていた。
三柴は仕返しのようにぐるぐる巻きにしてやったので、しばらく放置しても問題はないが……。
「あー、どうするかな」
取り出してみるも、予想通り圏外のスマホ。持ち出した地図を見る限り、一番近い人里まで車でも一時間ほどかかる距離。小屋と木々以外に見えるのは、三柴が乗ってきた一台の車。
わかりきった答えにふうと溜め息を吐くと、晴彦は三柴のポケットから鍵を奪い、運転席へと乗り込んだ。
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