雨宮梨奈の場合(その一)

 都内、青葉総合大学。雨宮梨奈はその門を出て、アルバイト先の武智探偵事務所へと向かっていた。
 いつもなら隣にいるはずの晴彦は教授に呼び出され、生憎と今日は一人きりだ。車で送り迎えしてもらえば楽なのだが、雨宮家にある車は全て高級車。さすがにそれは目立つので、普段は遠慮している。
 そもそも、梨奈の性に”雨宮財閥のご令嬢“という身分は合わないのだ。
 だが、今日に限ってその判断は誤りだった。

「きゃっ! な、何なの、あんたたち……!」

 突然行く手を阻むかのように、横の路地から飛び出してきた二人の男。どちらもサングラスやマスクで顔を隠しており、誰が見ても怪しい人間だとわかる。
 梨奈は身構えながら、じりじりと後退した。数歩退がったところでトン、と柔らかい何かにぶつかる。
 ――同じ格好の男だった。

「っ! しまっ……」

 仲間の存在に気付いても既に遅く。口元には布を押し当てられる。
 薄れ行く意識の中、梨奈は脱力した体が担ぎ上げられるのを感じた。

挿絵提供は、oblivion様。

 目が覚めたのは、薄暗く汚れた部屋の中だった。家具がないため、広くは見えるが実際は狭い。その壁際で座らされていた。
 梨奈は思わず立ち上がろうとしたが、胸から椅子の背まで縛り付けられているようで、体が動かない。腕も後ろに回されて縛られており、足は椅子に固定されていないが両足首を括られて、こちらも自由とは言い難かった。
 更には口がガムテープで塞がれている。鼻で呼吸はできるが、

「んーっ! むうっ、んんーっ!!」

叫ぼうにもくぐもった声しか出なかった。
 梨奈の背中につ、と冷たい汗が流れる。
 子供の頃に誘拐されかけたことや、事件に巻き込まれた経験はあった。だが、今回は手の込んだ誘拐で、仲間にも知らせていない。
 梨奈はもう一度視線を巡らせる。

(部屋の様子から見て、普段使われている建物じゃないわね。窓もないし、ドアは遠い。それにこの状態じゃ……どうしよう)

 自力での脱出はどう考えても無理だ。状況を把握して、絶望感がどっと押し寄せる。
 その時、キィ……とドアが開いて男たちが入ってきた。その内の一人は誰かに電話を掛けている。

「……ああ、お嬢様の無事を確認できたら三億、用意できるんだな」
(身代金が目当て、か……)

 雨宮家の誰かとすでに交渉中のようだ。本人確認を求められたらしく、電話を梨奈の耳に押し当てる。

『お嬢様? お嬢様ですか? ご無事でいらっしゃいますか!?』
「おい、何か喋ってみろ」
(くっ……こんな奴らに恐怖を感じるなんて。……でも)

 梨奈は探偵事務所の仲間たちの顔を浮かべると、怯えた顔を隠し、強い意志を持って犯人たちを見据えた。

「んっ、んーっ、んむむっ! むむぅ、むーっ、んむっ!」
「その辺でいいぜ。……ああ、うめき声だって大事なお嬢様だ。わかるだろ? 下手なこと喋られても困るしな」

 男は梨奈から電話を離して要求を告げるが、梨奈はその間も呻き続ける。
 始めは面白がってニヤニヤしていた男たちだが、次第にイラつき、とうとうそれが限界を超えた。

「もういいって言ってんだろ!」
「っ!」

 椅子を蹴り上げられ、体ごと倒れる。呻き声は止まり、男たちもようやく梨奈から目を離した。

「おっと、今のは少し黙らせただけだ。それで、取引だが……」
(痛い……けど、できる限りのことは言った)

 録音はされているはず。だからモールス信号で、攫ったのは男四人であることを伝えた。建物ごとアジトであること、部屋の狭さも簡潔に。
 ちらりと見えた電話画面を信用すれば、攫われてから時間はそう経っていない。
 あとは条件に合うような建物が少ないことを願うだけだ。

 

 電話後、男たちは部屋から去っていった。一人は外で見張っているようだが静かなものだ。
 それが、しばらくして突然、激しく争うような物音が響いた。次いで一人の男がドアを壊すような勢いで部屋へと飛び込んでくる。

「な、何なんだあいつらは……!」

 何かに怯えたような男は、梨奈にしがみつくと片手でナイフを突きつけた。

「梨奈ちゃん、助けに来たよ!」
「こっちは任せてくださいなのですー!」
(イサムくん、詩織……!)

 男を追うようにして入ってきたのは、探偵事務所の仲間であるイサムだった。遠くからは詩織の声もする。

「う、動くな! 一歩でも動いたらこいつの命がないと思え!」
「卑怯な……!」
「お前の命もだ」
「っ」

 イサムの後ろには男の仲間が立っており、その腕を掴んでいた。
 悔しさに梨奈とイサムの顔が歪む。その男は、梨奈たちへと近付き――

「へ、へへ……形勢逆転だな。……うぶっ!?」

男を殴り飛ばした。首元に手をやると、ペリ……と特殊なマスクを剥がす。
 そこに現れたのは晴彦の顔だった。

「大丈夫か、梨奈」
「……ぷはぁっ。晴彦! こ、怖かったよぉ……!」
「悪かった。電話を受けた時、何か言えればよかったんだけど」
「ええっ!? あれも晴彦だったの!」

 晴彦は先に向かったはずの梨奈が事務所に来ないことを不審に思い、雨宮家に乗り込んでいた。
 得意の変声で対応しながら仲間たちと連携を取り、梨奈の信じた通りに助けにきてくれたのだ。
 梨奈は解放された安堵感で晴彦に抱きつき、仲間たちと無事を喜んだ。
 犯人たちも後から来た咲間警視に無事引き渡されたのだった。