不破詩織の場合(その一)

「では、こちらが約束のデータです」

 聞き覚えのある低い声が聞こえて、不破詩織は足を止めた。
 青葉総合大学のシステム科学技術学部棟、廊下。データのやり取りをする会話が交わされるのは何ら不自然ではない。しかし、詩織は何故か違和感を覚えた。武智探偵事務所を手伝うようになり、そういった勘が鋭くなったのかもしれない。
 詩織はそっとドアに近づき、高性能録音機『らぶらぶ地獄耳録音機★愛の言葉をつむぐ君』を使う。勘違いであれば立ち去ればいい。

「You did a fantastic job! 残るデータは当日持ってきてクダサイ」
「わかりました。これで私が論文を盗作していたことも知られぬまま、あなたの国で第二の人生が送れるのですね」
(盗作!? それにあなたの国って……)

 論文の盗作。どこか拙い日本語を話す相手。
 もう少し、中の様子が見えればもっと……。
 詩織は音を立てないよう少しずつドアを開く。隙間から姿を覗き込む。

「頼みましたヨ、Mr.坂衣」
(坂衣教授!?)

 知っている名前にはっとしてノブを握る手に力が入り、ガチャリと音が鳴った。

「誰だ!」
(しまったのです……!)

挿絵提供は、楓那*様。

 バレてしまえば、中に居たのは男二人。力は比べものにはならず、とっさに動けなかった詩織はすぐさま捕まってしまった。
 声を出せぬよう口を塞がれ、体と足をぐるぐる巻きにされると、暗い倉庫の片隅でパイプ椅子に座らせられる。
 何度か教授の手伝いをしたことがあるから知っている。ここは、坂衣教授が鍵を持つ研究室奥の倉庫だ。

「悪いが、明日の朝までここで大人しくしててもらうよ」

 ガチャン、と鉄のドアが重い音を立てて閉まる。

「ん……んんっ……」

 もがいても、声を出そうとしても、当然意味はない。しんとした広い部屋に小さな物音が響くだけだ。

(困ったのです……。あの会話。二人が良からぬことを企んでるのに違いないのです)

 詩織が助かるためならば、じっとしているだけでいい。教授の坂衣がいなくなったと知れれば、当然彼が管理していた場所も調べられる。詩織だって明日や明後日には見つかるだろう。
 だが、それではあの二人が高飛びしてしまうのだ。


(皆を巻き込むことになるけど……緊急事態なのです)

 一つ、教授は詩織について知らないことがあった。発明品の詳細だ。
 メカの天才。高いハッキング能力。優秀な才能があると知っていても、大学内で発表した研究結果以外は知る由もない。
 腕についた可愛らしい時計が、『キューティーコミュニケーター★愛野萌芽ちゃん』という通信機であることも。
 縛られているせいで手元は見えないが、自分の作品だ。手探りでも完璧に使用できる。
 発信音が鳴り、間もなく仲間の一人である雨宮梨奈の声が聞こえた。

『どうしたの、詩織? 通信機を使って連絡なんて』
「んっ、んんうっ……!」
『詩織……!? まさかあなた、何か事件に巻き込まれてるの?』

 そこで体を捩らせて、ポケットに入れていた『愛の言葉をつむぐ君』のボタンを何とか押し、音声を再生する。倉庫の中では空しく響くだけの音も、通信先の梨奈にすべてが伝わっていた。

 

 ――夜になり、人気のなくなった研究室。
 カタカタとタイプ音が響き、次いでモニターに処理の完了を告げるメッセージが表示される。電灯の消えた部屋では、モニターの明かりを受ける男の顔だけが浮かんでいた。

「よし。ダウンロードは終わった。これをあの方に持っていけば……」
「そうはいかないのです、坂衣教授!」
「だ、誰だ……!」

 バタン! と研究室のドアが開かれ、坂衣は驚いて振り返る。
 そしてすぐに瞠目した。
 そこにはいるはずのない不破詩織が立っていたのだから。

「どうして不破君が! あの部屋には鍵を掛けたはず……いや、その前に固く縛って動けなくしたはずだ!」
「詩織に目を付けたのが悪かったわね」

 詩織の後ろから、探偵事務所の仲間である梨奈と晴彦、それにイサムが現れる。彼らさえいれば、脱出など容易だ。

「覚悟するのです!」

 詩織が高らかに叫び、坂衣に向けたのは『護身用光線銃RX★マモルくん』の銃口だった。
 その意匠は詩織にとってはキュートでも、銃としては少しふざけたものに見える。誰がそんなもので臆するものか。坂衣は詩織目掛けて突進した。
 しかし、その瞬間。銃口からカッと強い光が放たれる。

「うわあっ……!」

 殺傷能力は極めて低いが、あまりの眩しさに坂衣は目を押さえた。それを見たイサムと晴彦が飛びかかる。
 特に、故郷の国で特殊部隊の一員として活動しているイサムには敵うはずがない。
 体を床に押しつけられ、腕を捻り上げられると情けない悲鳴を上げた。

「ひっ、ひいぃ……」
「観念するんだな、産業スパイに手を貸した教授さんよ」
「皆、今咲間警視に連絡を取ったわ。すぐに来てくれるって」
「到着する前に、教授の持っているデータを解析するのです。取引相手に関しては暗号化していると思うけど、そんなの簡単に解読してみせるのです」

 こうして坂衣はもちろん、坂衣からデータを受け取ろうとしていた産業スパイも捕らえることができた。
 その先のことについては警察の管轄で、彼女たちの知るところではない。
 ただ、数週間後の新聞には、とある海外企業のスパイ活動について大きく記事が載っていた。