1話 「休日の秘密特訓Ⅰ」

 最近では天気がどうも味方してくれず、悪態の筋トレサークルになっていた。特に明日美のテニス欲は底知れず、近くに転がっているテニスボールを英良に向かって投げつけた。
「ねえあっくん! もう筋トレ飽きたんだけど! 試合がやりたい!」
 明日美の言うことにも一理あった。はじめこそ「筋トレは基礎体力を作るのにも効果的だ」と少々不満げな後輩たちにも言えたが、ここまで雨続きになると鬱々とした気持ちにもなる。英良はため息をついた。自分自身も、筋トレやストレッチばかりの繰り返し活動に気が滅入っていた。
(別に、毎日追い詰めるようにやることもない、か。肝心の意欲がなくなっちまったら、楽しいテニスもつまらなくなる)
「この前よりちょっと柔らかくなったかな?」
「そ、そうだね。基愛さんのお陰かな」
「そんなことないよー、毎日白咲くんが頑張っている賜物だよ」
 ちらりとペアになって和気藹々と筋トレに臨む幸一郎と羽沙を見ると、あれこそ求めているサークル像だと思った。みんながああやって楽しめれば、どれだけ明るいサークルになるだろう。それにしても、今の流れは非常にまずい――英良は一旦流れを断ち切ろうと思った。
「ああ、わかった明日美。試合はちょっと場所を考えよう。屋内施設を借りられるように手配してみる」
 英良の言葉に顔を輝かせた明日美は「絶対だよ!」と英良に約束させた。「絶対の約束は厳しいが、最善は尽くすから」というと明日美は英良に飛びついた。
「何かあったら、あたしも手伝うから言ってね」
 全く優しい彼女である。素直な彼女が英良は大好きだった。
 前々から市営施設を借りられないか水面下での交渉は進めていたが、予約制となっており、思うように時間と都合が合わないのだ。皆が入りたいのは決まって午後から夕方の時間。他校の学生や社会人チームなど、自分たちと似た生活リズムをしている人口が多いゆえに、交渉は難航していたのである。
 今日は木曜日。週末の空き状況も連絡してみたものの、既に埋まっておりキャンセル待ち状態とのことだった。それならば、いっそのこと三連休にして、リフレッシュできる時間を設けた方がいいのかも知れない――そう思い、英良はみんなを集めた。ちょうどそれぞれの時間になって解散する頃である。
「えーっと、今日もお疲れさま様でした。明日なんだけど、俺はまたテニスコートの予約の件で動きたいので、一斉に休みにしようと思います。土日はいつも通りなしね。今週のサークルは今日で終わりなんで、各々しっかり休んで、勉強もしっかりするように。んで、あと二年組――幸一郎と基愛さんはちょっと話があるから残って。じゃあ今日は解散。一年片付け頼むなー」
 お疲れ様でした! と挨拶を交わした途端、別のスイッチが入ったかのように、着々と片づけを済ませ身支度を整えた人たちは空き教室を飛び出す。彼らはバイト組だった。一年生が片づけをしている最中、英良のところへ幸一郎と羽沙が歩み寄ってきた。
「坂神くん、話って何かな?」
「悪いな二人とも。あのさ、今度の土日どっちか空いてない?」
 何事かと思えば、休日の予定を尋ねられ半ば驚く二人だったが、幸一郎は悪態をついた。
「俺は休日暇してるって知ってるだろ、英良」
 まあお前はな、と英良は苦笑する。
「私も今週末はどっちも大丈夫ー」
 羽沙も微笑んで言った。彼らの返答に安堵した様子で続ける。
「それなら良かった。実は、こんなチケットを親父から貰ったんだけど、お前らにもどうかなと思って。もしよければ、四人で行かね?」
 鞄の中から取り出したのは、最近新しくできた水族館の優待券だった。聞くところによると、英良のお父さんの会社が水族館設立に協賛したということで、謝礼として優待券を家族の人数分もらったらしい。しかし英良の両親は多忙で、週末の休みが取れなかった。そこで誰が行っても良いということで英良が譲り受けたのである。食いついたのは羽沙だった。頬を紅潮させながら言う。
「へえ……! 私水族館大好きなんだあ。みんなで行こうよ」
 隣で羽沙の言葉を聞いていた幸一郎は、羽沙の新しい一面を目の当たりにしていた。
(水族館、好きなんだ……俺はあんまり興味なかったからな)
「んじゃ、基愛さんはオッケーね。幸一郎はどうする? ……これはチャンスだと思うけど」
 英良は幸一郎に耳打ちした。さすがの幸一郎も目の前に転がっている羽沙と仲良くなるチャンスを見逃すほど愚かではなかった。
「俺も行きたい」
「よし、じゃあ決まりだな。詳しいことは明日の昼にでも話そうぜ。俺もバイト行ってくるわ」
「うん、わかったあ。坂神くん、また明日ね!」
「お疲れ、英良。社畜ってこい、社会の畜生」
 うるせえな、と笑いながら背中を向けその場を後にした。
英良が帰った後の責任者は明日美にしている。明日美は一年生の片付けが終わるまで待ってから、事務局に空き教室の鍵を返しに行った。
「祥空さん、お疲れ様でした!」
 一年の加奈子がぺこりとお辞儀をして足早に廊下を賭ける。その背中に向けて明日美は大声で言った。
「うん、おっつー! 早く帰りなねー!」
 明日美は鍵を返却した足で校門に向かう。久々の英良がいない帰り道だった。それにしても、最近はなかなか二人になれる時間がない。水族館に行くのは、彼女にとってもチャンスの到来だった。
「よしっ、あっくんのことをメロメロにしてやるんだから。今日は服を買いに行こうかな!」
 すると、校門に見える二つの影があった。よく知ったシルエットに明日美は口角が上がる。一つの影が大きく腕を振っていた。
「明日美ちゃーん、帰ろー!」
 三人は横並びになって最寄りの駅に向かう。幸一郎は自転車だったが、最寄り駅まで見送るのが日課になっていた。数少ない羽沙との二人きりを楽しめる時間だったからだ。
「羽沙、白咲くんも、もしかして待っていてくれたの? 結構待たせちゃったよね、ごめんね!」
 明日美は顔の前で両手を合わせ、拝むような仕草で二人に謝罪した。
「いいの、いいの。私たちが待っていたかったから待っていたんだよー、ねっ、白咲くん」
「あ、ああ気にすんな。僕英良に頼まれていたんだ。その、一応祥空さんも女の子だし、一人じゃって」
 明日美は苦笑した。幸一郎の言葉の節々に聞き捨てならない言葉が混じっている。「一応」だの「頼まれていた」だの――明日美は軽く幸一郎の腹を殴った。
「ええ、一応女の子の祥空明日美ですが、白咲幸一郎パパに保護された模様。どうやらクライアントはあっくんらしい」
 わざとらしい皮肉めいた言葉を並べる。全く女心を分かっていない。
「これだからヘタレは女の子の扱い方も分からないのね」
 ふん、と鼻を鳴らした。
「ちょっと待てって。誤解だよ。全部英良が言ってた言葉だぞ」
 弁明を試みる幸一郎だったが、さらに背負っていたリュックに回し蹴りをお見舞いされてしまった。
「だからそれが女心を分かってないって言うの!」
 一方的にサンドバッグになっている幸一郎があまりにかわいそうになってきて、羽沙が仲介に入る。
「二人とも喧嘩は良くないよー、仲良くしようよー」
「大丈夫だよ羽沙。喧嘩なんてしていないから。女心の分からない鈍感男に鉄拳制裁しただけだよ」
 にこりと笑う明日美だったが、言葉には随分と怒りが滲み出ていた。幸一郎は呻きながら言う。
「……なかなかに痛かったんだが。これで手加減しているのか?」
「うん、そうだけど?」
 明日美の即答に幸一郎の顔から血の気が引く。どうやら明日美のことは怒らせてはならないようだ。幸一郎は慌てて弁解する。
「祥空さん、わ、悪かったよ。別に不快にさせたくて言ったわけじゃないんだ」
 別にちょっとからかっただけだよ――そう幸一郎に言った明日美だったが、二人のやり取りを見て微笑を浮かべている羽沙に気がついた。
「羽沙、何で笑ってるのよ」
「だって、凄く仲が良さそうなんだもん」
「何、妬いてるの?」
 からかい半分で尋ねた明日美だったが、羽沙は至って真面目に答える。
「そんなことないよー、ただ微笑ましくて。みんな仲良しな方が楽しいもんね」
 混じりけのない羽沙の笑みに、明日美は内心うなだれていた。
(そうなんだよなあ……羽沙ってこういう子なんだよねえ。ほんと、白咲くんには申し訳ないけど、前途多難だなあ。あたしたちですら、この子の「みんなの癒しキャラ」は変えられないんだわ……)
「あ、ああ、まあそうだよね」
 適当にはぐらかしてからも明日美の心中は葛藤を続けていた。
(そもそも羽沙が水族館好きだって話したことが発端だったけど、この調子じゃ水族館に行っても白咲くんの専属ガイドさんになりかねないなあ。それもそれでオッケーなの……?)
 今週末のお出かけは、あくまでも「幸一郎と羽沙の距離を縮める」という目的に付随したものだった。ペアになっていれば、きっとさすがの羽沙も個人に向けた好意というものに気がつくのではないかと思っていたが、結局二年目に突入して三カ月――全く進展がなかったのだ。今日の筋トレやストレッチにしたって、サークルの雰囲気の模範的光景にしかなっていなかった。長座体前屈をするのに背中から押していた羽沙は無意識の産物が生んだ、スパルタインストラクターだった。
『白咲くん、もう少し押しても大丈夫?』
『あ、あぁ……だ、大丈夫』
『無理しちゃだめだけど、ちょっと無理した方がほぐれるから――』
『どわああ……! い、痛い痛い!』
『ご、ごめんね! やりすぎちゃったかな!? あ、でもこの前よりちょっと柔らかくなったかな?』……
 初々しきカップルさながらのやり取りは、サークル内で全年齢対応の眼福な光景だった。実際、羽沙の隠れファンはサークル内にも多い。彼らのやり取りを水面下で羨ましく思っている人たちがいることに明日美は気がついていた。
『いいなあ……基愛さんに押されて悶えたい……』
『幸ちゃん得だよね、あんなの。つばさっちとペア組みたかったなあ』
 一年生からの真摯な幸一郎の好意を知っている明日美と英良は、下心剥き出しの彼らから絵に描いたような天使を守ると同時に、幸一郎の成就を強く願っていた。
(普通誰だってあれだけ仲良くしていれば、付き合っていると思われているだろうけど……まあ白咲くんがヘタレだからなあ。言わなきゃ伝わらないってのに。まあ、今回のチャンスをものにして貰いたいものね)
 駅に着くなり、幸一郎の靴を何度か小突きながら明日美は言った。
「ヘタレで女心の分からない童貞くん、少しは開き直った方がいいぞー、あたしたちは応援してるんだから」
「応援?」
 羽沙が首を傾げたのを見て、幸一郎が慌てふためく。
「ちょ……っ! 祥空さんストップ! ってか童貞は余計だ!」
 ふっふー、と明日美特有のご機嫌笑顔が漏れた。どうやら明日美様は先ほどの仕返しのつもりだったらしい。
「ま、明日詳しいことは話そうじゃないか、チェリーボーイよ。ふっふー」
「送ってくれてありがとう、白咲くん。また明日講義でね」
「お、おう。また明日……」
 何て場の雰囲気を読まないのだろうと幸一郎は心臓をバクバク鳴らしていた。今ので羽沙に自分の気持ちが知られてしまったらどうしてくれたんだと恨めしそうな目つきで明日美を見るが、全く気にする様子もなく、バイバーイ! と手を振って別れを告げて明日美と羽沙は改札の中へ消えていった。ため息をつきながらそれを見送ると、幸一郎は自転車に跨り力強くペダルを蹴った。

 日曜日――腕時計を眺めながら定刻前に待っていたのは、幸一郎と英良だった。二人は約束の10時よりも30分も前に集合場所に来ていたのだ。実のところでは男二人での作戦会議だった。
「おい幸一郎、ちゃんと寝たか? クマがあるとさすがの天使も引くかも知れないからな」
「わ、わかってるさ、俺の顔を見てみろよ。綺麗だろ」
 余裕げな振る舞いの悪友が心底妬ましい。幸一郎は英良に顔を近づけて言った。
「まあ確かに。お肌すべすべだ」
 気持ちわりいんだよという言葉とは裏腹に、英良は幸一郎の頬を両手で挟んでさする。幸一郎は嫌そうに眉間にしわを寄せながら「やめてくれよ」と短く言った。
「そういうのは祥空さんにやればいいだろ?」
「わかってないなあ。あいつはこういうの嫌なんだよ。あんま人から触られるのが嫌みたいでね。自分からは全然大丈夫らしいってからよくわかんねえけど」
 んなこと知るかと、幸一郎は顔を背けた。
「だからって俺でやることないだろ」
「いやー、基愛さんを射止めようと健気な幸一郎がいじらしいというか?」
「お前なあ……大体英良はどうなんだよ。この前お前が言ってたこと、祥空さんに言ったら半殺しにされたぞ」
「俺が言ったこと?」
 事の顛末を伝えると、突然英良が吹き出して大笑いした。
「お前バッカだなあ! そんなの怒るだろ普通。そりゃ、普通に一応女の子だから――なんて言ったら、俺だってただじゃ済まないだろうな。言葉のあやだよ、あんなのは」
「んな! どういうことだよ」
「それはだな、近くに基愛さんっつー小動物がいりゃ、自分の立ち居振る舞いを気にせざるを得ないから、「一応女子」なんて言われたら傷つくに決まってるだろ。これだから童貞は……」
 幸一郎の顔がみるみるうちに真っ赤になる。
「お前まで童貞っていうなよ……」
 いよいよ幸一郎のメンタルが崩壊しかけたところで、ようやく女子二人も集合場所にやってきた。

 

⇦⇧イラスト提供は、oblivion様。


「おはよう、二人とも。もしかして待った?」

 羽沙の問いに無言になった二人だったが、こっそり英良が幸一郎を小突いた。「早く答えろよ」の合図だった。
「あ、ああ……そんなことないさ」
「おっはよー! なんだ、あっくんの方が早かったんだね」
「うっす、明日美。それから基愛さんもおはよ。それじゃあ行くか」
 だが突然、明日美が歩き始めた英良の腕をグイっと引っ張った。
「ねえ、今日のあたしどうよ?」
 期待を滲ませながら明日美は英良に尋ねる。すると英良は躊躇うことなく「可愛いんじゃね? たまにはそういう服着ても」と涼しげな表情で言った。明日美は待ってましたと言わんばかりに「ふっふー」とあの笑みを浮かべたのだった。二人のやり取りを見て、幸一郎は戸惑っていた。
(あんなに自然に言えるもんなのか……? 可愛いとか、似合ってるとか、そういう褒め言葉って)
 幸一郎は頭を抱えながら呻いた。
(出来るわけねえ!)
「……の、……咲くん」
(そ、そもそも基愛さんと付き合ってるわけでもなし!)
「白……くん! 白咲くん!」
 ハッと我に返ると、目の前には心配そうに幸一郎の顔を覗き込む羽沙の顔があった。驚いた幸一郎は思わず後ずさりしてしまった。その顔は真っ赤で今にも湯気が立ち上りそうだ。
「もっ、基愛さん……」
「大丈夫? ボーっとしてたけど、ひょっとしてあまり体調良くない?」
「いやいやいやいや! 大丈夫大丈夫、ぜーんぜん元気だよ!?」
 基愛さんのことを考えていた、など言えるはずもなく、ぎこちない誤魔化しをするので精一杯だった。そんな幸一郎の言葉を素直に受け止め、安堵の表情を浮かべていた。
「そっか、それなら良かった」
 少し熱が冷め、冷静に羽沙のことを見ると、いつも垂らしている髪がサイドテールに結わかれており、白のワンピースに薄黄色のカーディガンを羽織っている。普段も女の子らしい身なりはしているが、休日スタイルを見たのはこれが初めてだった。
「か、可愛い……」
 幸一郎の本心から出た言葉だった。押さえることすらできないほど、幸一郎のことを魅了していたのだ。予想外な反応に、羽沙も顔を赤らめていた。どう返事をしようか困惑しているようだ。そんな彼らの様子を見て、明日美が羽沙の腕をとると、「さ、行こう!」とリードし始めた。
 後からついて行く男衆は耳打ちし合った。女子二人の背中を見ながら幸一郎を励ます。
「あれはナイスだったぞ幸一郎。さっきの基愛さん、ちょっと動揺してなかったか?」
 幸一郎は肩をすくめた。
「さ、さあ……俺も俺で必死だったし」
「ま、ともかく出だしは好調だな。この調子で基愛さんにお前のことを意識させちゃえ」

 新設された水族館は集合場所から徒歩10分ほどの場所にあった。
「あ、そうそう」
 口を開いた英良が前方の二人を呼び止める。目の前に水族館の入り口が見えたところで、チケットを差し出した。
「言い忘れてたんだけど、そのチケットペア対応で、グループチケットじゃないんだ。だから入場の時に多分分かれると思う。出口待ち合わせにして自由に回らね? せっかくだからダブルスのペアでさ」
 あまりにも露骨すぎる提案だが、羽沙は名案だと了承する。
「そうだねえ、最近は坂神くんも明日美ちゃんと一緒に帰ったりしてないもんねー、邪魔になるようなことはしないよー」
「さっすが、羽沙は解ってくれるう!」
 明日美はぎゅっと羽沙を抱きしめると、満足げな笑みを零していた。
「それじゃ、お二人さんもごゆっくりー」
 そう言って、英良と明日美は先に入場ゲートへと消えていった。あまりの急展開に幸一郎の頭の中はかき混ぜられていた。
(ちょっと待て、何で今基愛さんと二人きりなわけ? 英良と祥空さんは? 何この状況……!)
「それじゃあ、私達も回ろっか。せっかく貰ったチケットなんだしね」
 これでも海の生き物には詳しいんだよ、と羽沙は幸一郎の腕を引くと、英良たちの後を追って水族館に入場した。
 館内は水槽を照らす優しい青いライトで幻想的な雰囲気を醸し出していた。羽沙は事前にこの水族館のことを調べていたが、どうやら「大事な人とマイペースな時間旅行へ」というキャッチフレーズはここからきているようだと感じていた。喧騒とした俗世から隔離された母なる海の中にいる感覚は、普段では決して感じることが出来ないだろう。鬱々としていた梅雨のことを忘れられそうだった。
「綺麗……」
 想像以上の雰囲気に圧倒され羽沙は呟いた。ピチャン……コポコポ……水が奏でる優雅な音がBGMになっている。耳を澄ませるだけで、違う世界へと誘ってくれそうだ。
「そ、そういえば僕、あんまり水族館とか来たことが無いかも」
 幸一郎のぼやきがかなり遠くから聞こえる感覚ではあったが、視線を横に移すと水槽を凝視している彼の姿がすぐ目の前だった。今日は一人で水族館に来ているのではないと思い直す。
(いけないいけない……私ったら、つい自分の世界に)
 羽沙が水槽を指差して言う。
「昔からね、クラゲはその生態が謎に包まれているんだって。そういえば!」
 羽沙はやや頬を赤らめて、恥ずかしそうにしながら口を開く。
「小学生の時に、ミズクラゲを捕まえたの。それで家に持ち帰ろうとしてたんだけど、坂道で転んじゃって。アスファルトの上に落ちたはずなのに消えちゃったの。びっくりだよね!」
 羽沙の言葉に耳を疑った。もう一度聞き直す。
「クラゲが消えた?」
 羽沙は強く頷くと、続けて言った。
「そう。その後お母さんが蒸発したんじゃない? って言うから、きっとそうよって思ったんだけど、それにしても不思議だったなあ」
 サンゴ礁の展示スペースにやってくると、今度は幸一郎に質問する。
「ねえ白咲くん。サンゴ礁って何でできていると思う?」
 幸一郎は一呼吸おいてから「サンゴでできているからサンゴ礁なんじゃないのか?」と聞き返す。「そうじゃないよ」と羽沙は笑った。
「そのサンゴは何でできていると思う?」
 これにはお手上げだった。幸一郎は両手を上げ「わからない」という仕草をする。それを見て羽沙は自信満々に言った。
「サンゴ虫っていうのが集まってできているんだって! てっきり植物でできているとばかり思っていたから、私知った時にはすっかり驚いちゃって」
 それから各ブースで基愛羽沙の特別ツアーが開催された。熱弁してくる羽沙にはじめは戸惑っていた幸一郎だったが、彼女の熱意に自分ももう少し興味を持って知った方がいいと痛感する。だがそれだけではない。こんな羽沙を見たのはきっと自分だけなんだと思うと、胸の深いところから沸々と優越感が沸きあがった。
「わぁっ見て! ペンギンだあ。可愛い~」
 そうかと思えば、無邪気な羽沙の姿。七変化する彼女の素顔に魅せられる幸一郎だった。ペンギンの水槽は彼らの身長と同じくらいで、目線の先には水中で回遊するペンギンたちがいる。せっかちなペンギンは、トレーナーの姿を見るなりご飯をたかりに岩に上って後追いしていた。
「ねえ、白咲くんも近くで見てごらん……! 腕に巻かれているブレスレットみたいなものは、個体を識別するためのものでね……」
 幸一郎は羽沙に腕を引っ張られ、近距離に迫った彼女にドキドキしていた。フレグランスなシャンプーのにおいが鼻を刺激する。羽沙の解説ショーどころではなかった。
「ち、近……」
 活き活きと語る羽沙よりも、ただそこに彼女がいることに緊張してしまっていた。彼女の解説も上の空に、順路を進むと光が見えてくる。そちらを指差して羽沙は言った。
「白咲くん、もう出口みたいだね。明日美ちゃんたちは出口で待っているのかなあ。早く行こ」
 そして駆け出したその時だった。
「あっ!」
 足元に段差があったのに気がつかず、盛大に前へつんのめった。「危ない」と声をあげるより先に幸一郎の足は前に出ていた。その場に残った羽沙の腕を間一髪のところで掴み、自分の方へ引き寄せる。華奢な羽沙の体は幸一郎の胸元にすっぽりと収まった。
「基愛さん! 大丈夫?」
「う、うん……! 恥ずかしいぃ」
 赤面して、両手で顔を覆った。その指の間から幸一郎を覗き込み、小さな声で言う。
「ありがとう、この服今日初めて袖を通したから、初日から汚れなくてよかったあ……白咲くん、ありがとう」
「と、とにかく無事で良かったよ。基愛さんの顔に傷がついたら大変だったし」
「私なら大丈夫だよー、昔から外で遊んでてよく怪我してお母さんに怒られてたし」
 ふふふと羽沙は笑みを浮かべる。もはや幸一郎のスペックでは今何と言うべきなのかわかりかねた。何となくその場にいるのが照れくさくなりながらも、二人は出口の向こうで待っているであろう明日美たちの元へ向かう。やはり先に入った彼らは一足先に出口にいた。
「おかえりー」
「結構待ってた? つい白咲くんに語っちゃってたから」
 そんなことないよ、と明日美は言う。
「まあ、いつもツアー相手はいなかったんでしょ? 楽しかった?」
 明日美の問いに羽沙は上気しながら言った。

「うん! いつもなら一人でも楽しいんだけど、誰かと一緒っていうのも楽しいんだね! きっと明日美ちゃんと坂神くんが一緒でも楽しかったんだろうなあ」
 羽沙の言葉に、他三人はうなだれる。やはり基愛羽沙の攻略にはまだまだ時間がかかるらしい。
「……頑張れ、幸一郎」
 英良も苦笑して幸一郎の肩を軽く叩いた。
「お前の相手はなかなか難易度が高いみたいだから」
「お、おう……」
彼らの怪しげな様子からみて、まだ羽沙の心は掴んでいないようだった。
「んで早速だけど、明日の活動、俺らの今日の秘密特訓の成果をみんなに見せるから、覚悟しとけよ!」
 英良の宣戦布告にただ動揺するほかなかった。幸一郎はどういうことなのか尋ねる。
「はっはっは、今日のダブルデートがただのデートなわけがないだろう! 今日一日の行動そのものが特訓だったのさ。っつーわけで、明日は正々堂々の勝負をしよう。作戦会議だ、明日美」
「明日試合できるの!?」
「明日の天気は晴れだぜ? お前なあ、ちゃんと見とけよな」
 明日美の驚きように、本当に試合がやりたかったのか疑いをかけた英良だったが、彼女の子どものような歓喜に考え直す。明日美は「ふっふー、ふっふー」としきりに口笛のような笑い声でスキップし始めた。
「よーし、そうと決まったら目指せ全勝だよ!」
 明日の試合、楽しみにしているね! とその場で解散し、二人は帰っていく。残された幸一郎と羽沙は顔を見合わせた。
「な、なんか……明日はハードな活動になりそうだね」
「そうだな……」
 そう言いながら、二人は駅の方向に歩き出す。
「駅まで送るよ。電車の方面は逆だし」
「うん、ありがとう」

To be continued…