2話「眠れる獅子」

 月曜日――
 天気に裏切られることなくこの日は朝から晴天だった。昨日までの曇天が嘘のようで、アスファルトに残った小さな水たまりがキラキラと光っている。気合十分といった様子でテニスラケットを背負う明日美と、大事そうに抱えながら歩く羽沙の後ろ姿を見つけた幸一郎は声を掛けようか躊躇っていた。時々見える羽沙の横顔がとても可愛く、昨日のものとはまた違っていることに気づく。昨日恥ずかしがっていた様子や、自分の好きなものに夢中な彼女はやはりあの場にいた自分しか見ていない――彼女を独り占めできていたような心地になる。同時にモヤモヤした気持ちがあることにも気がついた。親友の明日美が隣を歩いていることでさえ、どこか敗北感に似た思いで見ている自分。
 明らかに幸一郎は浮かれていた。
「これが……嫉妬か」
 自分の胸に手を当てる。昨日の羽沙の表情が脳裏をよぎる。そんな一人エゴに浸っていると、後ろからチリンチリンと自転車のベルを鳴らされた。
「はよー、幸一郎。今日はわかってるよな?」
「なんだ、英良か。おはよ」
 なんだとはなんだ、といつもの調子で話していると、前方を歩いていた明日美と羽沙が振り返った。彼らの声に気がついたらしい。「おーい」と明日美が大きく手を振った。
「珍しいね、二人とも普段もっと遅いじゃん」
 普段の英良では到底現れる時間ではなく、明日美が感心した様子で彼を上目遣いで見つめた。英良は頭をガシガシ掻きながら言う。
「いやあ、眠れなくてさ。今日の試合が楽しみ過ぎて」
 子どもっぽい理由に、思わず幸一郎がツッコミを入れた。
「小学生かよ!」
「お前だってどうせ似たようなもんだろ?」
 そういう英良の眼光が鋭く光る。
「何ならあれか? たった今まで呆けていたのは昨日の――」
 悪戯っぽい笑みをたたえた英良の口元が「い」の口になりかけていたのを慌てて制した。何を言おうとしているのか、心当たりしかない幸一郎はここでばらされてはたまらないと語気が強くなる。
「おいやめろ! てかお前いつから見てたんだよ」
 しかし英良は極めて冷静な口調で幸一郎の醜態を晒してしまった。
「え? いやお前が明日美と基愛さんに話しかけようか迷っている様子が後ろから見て取れるくらい前から?」
 幸一郎の顔がこわばる。そしてまた彼の平穏な一日が終わりを告げた。
(ああ……終わった……またこいつはネタを作りやがったな……)
 ちらりと明日美の方に目を向けると、新しいおもちゃを見つけた子どものような満面の笑みで幸一郎を見ており、ばっちりと視線が合ってしまった。
「……へえ……そっかあ、やっぱりヘタレ童貞白咲くんなのね」
 意味深な口調で幸一郎をからかってくる。ただでさえ月曜日の朝は億劫だった。休み感覚が抜けず体が重い。だから、週明けに羽沙に会えることだけを楽しみにして乗り越えている幸一郎だった。そんな天使の前で自分の醜態が丸裸にされてしまい、生きた心地がしなかった。
「もうやめてくれよマジで……」
 だが、ここに来ても天使は天使だった。頬を膨らませるとやや声が低くなり明日美に反論する。
「もう! 明日美ちゃんはいっつも白咲くんのことをいじめるー! もうやめてあげてよ」
「あたしが白咲くんのことをいじめている?」
 明日美には少々心外な言葉だった。だが明日美はニヤリと笑い、羽沙の肩を軽く叩く。
「そんな風に見えてたか、羽沙には。でもこれも一種のコミュニケーションなんだよ?」
「え? そうなの?」
 明日美の言葉に自分の発言は出すぎていたかと、羽沙は一歩引こうとした。だが、この胸の奥底から湧き上がってくる気持ちは何だろう。今までの羽沙であれば、いつもの二人の絡みだとさほど気に留めないのだが、このモヤモヤは……?
 幸一郎が大きなため息をついた。
(祥空さん、本当に……この人は!)
 とことん幸一郎のことをいじって楽しむ明日美だった。さすがの英良も引きつった笑みになっている。英良は彼女に口を動かし「やりすぎだ」と伝えようとするが、明日美は見て見ぬふりをした。
 羽沙は幸一郎のため息を聞き、やはり自分がしていることは間違っていないと考え直す。やはり彼はあまりいい気はしていないのだ。
「でも、そうだとしてもこんなに白咲くんが落胆してるのは、言われるのが嫌だからじゃない? そうだよね、白咲くん」
 突然意中の相手にこんな形で声を掛けられた幸一郎は、焦りながらも「あ、ああ、まあ……」と濁った返答をする。その様子に明日美は内心冷や汗をかいていた。みんなの天使は今日は幸一郎に微笑んだ。今日の羽沙は一味違った。
(まったく、変なところで冴えているんだからこの子は)
 やり過ぎたか、と思い「ごめん」と言おうとした明日美を遮り、羽沙は腰に両手を当て宣言した。
「明日美ちゃん、今日の勝負で私たちが勝ったら、もう白咲くんをいじめないで!」
 予想外の展開だった。突拍子のない発言に明日美の目が点になる。しかも彼女らしくない。羽沙は勝負に拘ったテニスを好まない性分だった。「みんなで楽しく」をモットーにサークルにも参加する少女だったが、今の彼女はパートナーのために怒り、勝ちのテニスを宣言した。羽沙の変貌に、明日美の瞳にも強い光が宿る。それは彼女が真剣を引き抜いた瞬間だった。今の羽沙ならば、手ごたえのある試合が出来ると直感していた。
「いいよ、んじゃあ、あたしたちが勝ったら、もう文句は言わないでね?」
 挑戦的な明日美。二人の間にほとばしる火花は小学生の闘争本能に似た無邪気さがあった。「い」の口で羽沙も負けじと反論する。
「いいもん! 勝つのは絶対に私たちなんだから」
 そう言って、羽沙は歩を早め、先に行ってしまった。
「……おい、何変な約束してんだよ明日美」
 英良の低い声に明日美は肩をすくめる。
「しょ、しょうがないじゃん。売り言葉に買い言葉だよ。でもいいじゃん。ちと面白くなりそう」
 明日美の瞳に眠る少年のような光が羽沙の背中を見て呟いた。
「多分、今日の羽沙は本気で来るよ。燃えるじゃん。あたし、まだ羽沙の本気見たことないよ」
 羽沙は新しく参加した一年生にも、先輩風を吹かせることなく同じ立場に立ってテニスを楽しんでいた。技術指導のほとんどは英良がやっており、その補佐に明日美、幸一郎がいた。羽沙は雰囲気づくりを自然としていたのだ。羽沙の存在は上達がゆっくりなメンバーの心の支柱になっていた。
「……確かに、基愛さんがあんなに真剣になったのは、初めてかも知れんなあ」
 英良は目を細めて羽沙の背中を見ると、つい1か月前のことを思い出していた。

 初心者でACCに入った朝霧鈴奈はややどんくさい一面もあり、力の抜き入れが苦手な少女であった。素振りですらぎこちなく、ボールを持ってサーブを打つにも、ラリーをしようにも、サビの入ったロボットの腕のように角ばった動作になっていた。そんな様子を見て、英良や明日美は頭を悩ませていた。肩の力を抜け、とは繰り返し伝えていたものの、上手く実践できない。時折鈴奈は涙を浮かべることもあったほどだ。
『せっかく教えて貰っているのに、上手くできなくてすみません……頭ではわかっているんです。でも、上手く体が動かなくて……』
 そんな悲しそうな表情の鈴奈に手を差し伸べたのが、羽沙だった。
 ある日、羽沙は鈴奈のフォームや体の動きをじっと見てから、途中の休憩で鈴奈に声を掛けた。
『後で、一緒にラリーやろ!』
 先輩からの誘いに、鈴奈は戸惑っていたが、休憩時間が終わるとすぐに羽沙は彼女の腕を引いて端のコートに入り、ネットを挟んで対峙した。
『鈴奈ちゃん。まずは私にサーブ、入れてみて。コートのラインは無視して大丈夫。まずは入れるとこから始めてみよ!』
『え、でも……』
 鈴奈は遠慮しようと消極的な態度を取るが、羽沙は全く動じることなく『まあまあ、やろやろ』と笑顔を浮かべながら促す。その表情には指導をするというより、この時間を楽しもうと、友達を誘うかのような自然さが滲み出ており、鈴奈もその雰囲気の中に入っていった。
 しばらくラリーにもならないテニスをやっていると、羽沙は言った。
『大丈夫。もう少し肩の力を抜いてみて。強く打ち返すことと、肩に力を入れるのは違うからね』
 何故だか、羽沙の「力を抜いて」と英良の「力を抜いて」は同じ言葉でありながら全く違った意味を帯びているように鈴奈は感じていた。
『は、はい……! 羽沙さん、こ、こう、ですか……?』
 鈴奈が遠慮がちに素振りをすると、先ほどまでとは違った素振りになっているのを見逃さず、羽沙は手を叩いて言った。
『そう! じゃあ私がサーブ入れるから打ち返してみて! 強く返してやるぞ、って気持ちより、多分気持ちよく打ち返してやるぞって気持ちの方が、のびのび打てると思う。あんまり細かいことを考えずやってみて』
『――できた……!』
『すごいよ、鈴奈ちゃん! この調子で頑張ってみて!』
 言うまでもなく、鈴奈の成長は羽沙のアフターケアのもたらした結果だった。彼女はある程度時間を共有して鈴奈の緊張を解くことから始めたのだった。同じ1年生でも鈴奈は根っからの初心者だった。家族と遊ぶ程度にもテニスをやったことがなかったのだ。一方で同学年には経験者もおり、鈴奈は居心地の悪さを感じていた。楽しそうだという純粋な興味では補えない差が2か月でできてしまったのだ。
 後から英良が羽沙に尋ねた。
『基愛さん、朝霧さんにどんな魔法をかけたんだ?』
『魔法なんてかけてないよー、私は魔法使いじゃないもの。でも、何となくね、鈴奈ちゃん、このままだとテニスのこと、嫌いになっちゃいそうだったから。だってACCはみんなが楽しむためにテニスサークルでしょ?』
 その言葉には一切の建前を感じなかった。

 常にサークルが活気ある環境になるように尽力していたのが、羽沙であった。
「こりゃあ、基愛さんの新たな一面が見られるかもなあ」
 そう呟いた英良の隣で、全く展開についていけなかった幸一郎が何とも言えない表情で、羽沙の後ろ姿を眺めていた。

 彼女とはサークルでしかほとんど交流はない。廊下ですれ違っても、挨拶をする程度だ。幸一郎は無性に羽沙が気がかりになった。冷静に今朝のことを思い返してみると、らしくない彼女の行動にもっと気を配るべきだったのだ。女の子にあそこまで言わせてしまった自分の身としては、なんて情けなかっただろう。
「おー、生きてっか、幸一郎」
 机に突っ伏していた幸一郎の顔の前で英良は手を振った。
「……何とかな、今自分の情けなさを呪ってたよ」
「そんなこったろうと思ったよ。お前、珍しいよな。講義があんなに身に入ってなかったの」
「……るせー」
 幸一郎は心ここにあらずと言った調子で、声に覇気がなかった。いつも講義に前向きな彼が魂が抜けたようにペンを持って硬直している様子に、普段であれば学生にあまり興味を持たない講師が心配して保健室に行くよう促したり、今日に関しては指名もしなかったりと触れてはいけない腫れ物のような扱いをしていた。講義が終わって部屋から出ていくときにはしみじみと「青春しすぎて燃え尽きるなよ」と訳の分からないことを言って去った。
「基愛さんって、あんなに自己主張する人だったんだな」
 突然、独り言なのか話しかけているのかわからないような調子で幸一郎が口を開いた。半ば冷やかしのつもりで英良が返した。
「お? 何幻滅?」
「そんなんじゃねえよ」
 幸一郎は上半身を起こすと、頬杖をつく。
「あんなに俺のこと気にしてくれていたんだと思うと嬉しいっつーか、何だろな」
 微かに頬を赤らめた幸一郎を見て、英良は露骨に虫けらを見たような表情で引いた。思わず突っ込む。
「女子かよ!」
「でもさ、基愛さんのことが気になるんだよなあ。祥空さんと朝バトってたし……」
「別にあれもコミュニケーションだとは思うがな。怒ってたとはいえ、ガチギレではなさそうだったじゃん?」
 明らかにそわそわした幸一郎の姿に業を煮やした英良は幸一郎に言い放った。彼が欲しがっている言葉はおおかた見当がつく。英良の性ではあり得ないことだが、今回は一役買ってやろうと思った。
「そんな心配なら、次の講義終わったら法学部行ってみりゃいいだろ」
 しかし幸一郎は頷かない。英良は内心では呆れていたが、こちらが折れるしかなさそうだった。
「分かった、分かった。後でついて行ってやるから様子、見に行こう」
「……サンキュー」
 全く世話の焼ける友人である。その時だった。英良のスマホが机の上で踊る。画面に表示された名前を見て、英良からため息が漏れた。
(ったく、後から俺に相談するくらいなら、はじめから大口叩くなよ)

 同じ頃、机に突っ伏してスマホ画面とにらめっこしていた明日美は、羽沙からの連絡を待っていた。いつも講義中にこっそり送られてくる動物の写真や、可愛い女の子のイラストを見て盛り上がったり、自分が送る笑えた動画を昼休みやサークルの時に話すというのに、今日は音沙汰なしだ。確かに朝は羽沙が先に行ってしまったし、少なくとも羽沙がらしくないことを言ったのも、もとはと言えば行き過ぎたひやかしが原因である。試合の動機づけになったから結果オーライだと思ったのは、どうやら明日美だけだったのかも知れない。
「うう……本当に怒ってるのかなあ、羽沙ぁ……」
 大学入学以前からの友人で、今まで喧嘩もなければ意見の相違もなく温厚な交友関係を結んでいた二人だった。それが当たり前になっていたようだ。意外と明日美は自分から連絡を取る質ではなく、いつも羽沙の話題に反応して楽しく会話をしていたことに気がついた。羽沙の話題に「可愛いな」と感じ別段嫌な気もしていなかったし、これが彼女らしいとも思っていた。だからこそ、明日美は正反対な彼女と同じ行動が取れないでいた。
 きっと一言何か送るだけでいい。それだけのはずなのに、指先は画面についた指紋をこすって消すことしか出来なかった。
 隣の席に座る同じ学科の友人にも、いつもの活気がないよと笑われてしまった。自分は案外繊細なのかも知れないと思ったその時、名案に行き当たる。
「あっくんに聞いていようかな、どうしようって」
 パッと顔を上げると、両手でスマホを掴み、タンタン、と英良宛てのメッセージを作る。
『あっくん、どうしよ(´;ω;`)羽沙やっぱり怒ってるのかな……(´;ω;`)』
 するとすぐに既読がつき、返事が返ってくる。
『あのなー。気になるなら見に行ってみるほかないだろ? どうせお前のことだから、画面見つめて待ってるだけなんだろ?』
 明日美は思わずうめき声をあげた。全くの図星である。
『そ、そうだよねーあははは(笑)』
 英良からの言葉は率直過ぎて痛かった。明日美は再び机に突っ伏すと、頭の中をグルグル回る葛藤と向き合うと、少し冷静さを取り戻せたような気がした。
「……うん。そうだよね」
 それから壁にかかっている時計に目をやると「あと3コマか――」と呟いた。
・・・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・
・・・

 テニスコート上には明日美と英良のペアと、羽沙と幸一郎のペアとが入り、他のメンバーが外野で見守る中試合が始まろうとしていた。その上、フェンスの外側にはサークルとは何の関係もない学生たちが集っている。ACCに所属する学生たちの友人だった。しばしば話題に出る坂神英良――彼の高校までの実績を知っている者や、天使と呼ばれている基愛羽沙を見に来ていると思われる。
「明日美ちゃん、負けないんだからね」
 ラケットを抱きしめながら羽沙は言った。その表情は笑みで溢れていた。
「あたしの運動神経はよく知っているはずだよ、羽沙。勝つのはあたしたち」
 明日美もいつもの笑顔だった。二人の様子を見るに、何か無意識に引いていた線が消されたようだと英良は感じていた。
(話したの?)
 英良は明日美に耳打ちをした。しかし英良の予想とは裏腹な答えが返ってくる。
(全く。あたしたちはACCなんだ。言いたいことはテニスで語ればいい。そもそも羽沙から言ってきたことだ。勝負にしたのは羽沙らしくないんじゃなくて、これも羽沙なんだよ)
 明日美は講義中ぼんやり考えていた。この気持ちを引きずって活動をしたところで楽しくなんてない、それならどうすればよいのか、と。そこから導き出した答えは「考えない」だった。
 ――そう、考えない。
(私が嫌だと思ったからやめてと言う。ただそれだけ。白咲くんが落ち込んでいるのを見たくないの。それだけ。だって楽しくやるのがACCでしょ!)
 羽沙はACCとその仲間が大好きだった。彼女は潤滑油のような存在。楽しいACCを存続させたいのだ。テニスが好きで、ACCが好き。どちらかが欠けていてはせっかく所属しているのに勿体ない。しかも幸一郎は英良の悪友である。長い付き合いでどちらかが「楽しくない」と思ったら二人は……
 そんなことはどうだってよかった。「私がみんなの悲しそうな顔を見たくない」同機はそれだけで十分だ。
「試合開始――!」
 初手――英良が高々とボールを上げ、豪速球が羽沙たちのコートに飛び込んで――
「……どうして?」
 小さな声で鈴奈が呟く。信じられないものを見ているかのように。
 前半、ギャラリーが静寂するほどの圧倒的な力で、羽沙と幸一郎が押さえつけられたのだった。3年の先輩たちも眉をひそめた。
「あきあすペアとこうつばペアってあんなに力差あったっけ?」
「いやそんなことなかったはずだ。確か互角だったと思う。英良が強いのはよく知っているが、それにしてもこれは――」
 誰の目にも明らかだった。
 英良と明日美の技術がより研磨されている、と。
 荒い息遣いでインターバル中、幸一郎はベンチに座り込んだ。
(何でだ、何で全然返せないんだ)
 後輩が幸一郎の頭にタオルをかける。この日は非常に蒸し暑かった。吹き出してくる汗で、水分も塩分も足りない。狂ったようにコートを駆けずり回っていた幸一郎は吐き気を催していた。
「……」
 辛そうな彼の姿を見て、羽沙も内心動揺していた。彼女も目の前の現実を受け入れられずにいたのだ。少し前まではあまり差のない実力でいたはずだった。しかし今日の試合では英良たちに圧倒的な力の差を見せつけられている。
(一体何が……)
 このままでは白咲くんがまた嬉しくないことを言われてしまう……そう思ったその時だった。「あの……」と遠慮がちにタオルを差し出してきた鈴奈が羽沙に尋ねる。
「羽沙さん、今日の羽沙さん凄く真剣なんですね、何かあったんですか? その、今日あんまり楽しそうに見えないです……」
 羽沙は目を見開いた。
(楽しそうに見えない……?)
 羽沙の脳裏に閃光が走る。視線を幸一郎に移すと、ふと感じるものがあった。
「そっか、そうだよね」
 頬を伝う汗を拭うと、羽沙は鈴奈を抱きしめた。
「鈴奈ちゃん、ありがとう。私一番大事なこと、忘れてたみたい」
 そう言って、ベンチにいつも持ってくるトートバッグから小さなタッパーを取り出すと、幸一郎の目の前にしゃがみこんだ。
「白咲くん、ごめんなさい」
「基愛さん?」
 突然の謝罪に幸一郎は思わず顔を上げた。その視界は黄色くて酸っぱい香りで溢れていた。
「私、今日のテニス、楽しんでなかったみたい。白咲くんは?」
「……うん。僕も楽しんでなかったかも」
 そうだよね、と羽沙は瞳を潤ませながら儚げに笑う。
「それじゃあ、勝てるはずないよね。だって坂神くんと明日美ちゃんは楽しそうなんだもん。思いが一つなんだもん」
 それから続けて言う。
「私ばっかり、独りよがりだった。白咲くんは今日の試合、どんな気持ちだった? どんな気持ちでやっていたの?」
「僕は――」
 幸一郎はずっと英良を越すことが目標だった。確かに彼は強いが、自分もそんな彼の後ろ姿を見てテニスを始めたのだ。いつか絶対に抜かす。それはもしかしたら今日かも知れないし、10年後かも知れない。だが、常に越せると思っていたい。今はミックスダブルスで越えることを目指したい――羽沙と一緒に。
 羽沙への思いはまだ言えようもなかったが、「いつだって英良を越すことを目指している」と言った。
「僕は英良がいたからテニスに出会ったし、今も楽しくやっている。そんな気持ちだよ」
 幸一郎は微笑んだ。「そっか」と羽沙は短く反応すると、タッパーを差し出した。
「私も! 明日美ちゃんが凄いのは知っているけど、楽しく上達して越えてみたいんだ。そうだよ、楽しくやってこそのACCだよね! これ食べて。昨日作って来たの。食べて元気になって、後半で巻き返そう!」
「ありがとう、基愛さん」
 幸一郎はタッパーの中に入った塩レモンを口に放り込む。染み渡る酸味で体が震えたが、その中には羽沙の真心も感じられた。気合入れに頬を二度叩いた。
「インターバル終わりまーす。先輩方コートに戻ってくださーい!」
 審判役になっている男子がベンチに呼びかける。幸一郎と羽沙は先ほどとはうって変わった晴れ晴れとした面持ちでコートを見つめていた。戻っていく先輩を見つめ、安堵した表情の鈴奈は胸の前で両手を組んでいた。
「良かった……いつものこうちゃん先輩と羽沙さんだ」

挿絵提供は、あるは様。

 それからの流れは次第に幸一郎たちが優勢になっていった。ラリーは続き、猛威を振るう英良と明日美の強いリターンにも対応していく。上手く点を奪っていくと、ハイタッチをして互いを励まし合った。時々のエラーにも「次返そう」とすぐに気持ちを入れ替え、相当高かった点差のハードルは狭まりつつあった。ギャラリーから歓声が上がる。

「えー、坂神先輩の相手のペアも強くない?」
「天使がコート上を駆けまわるのはまるで、『天使の舞』じゃないかあ。お美しい……」
 連続失点を重ねる英良と明日美は危機感を覚えていた。
「何でいきなりこんな吹っ切れるわけ!?」
「いやー、さすがにこれはやべえな。あいつらって乗るとこんなに力発揮するもんなのな」
 英良たちが技術的に勝っている部分に対して、幸一郎たちはモチベーションでそれを補っていた。楽しいからこのラリーを終わらせたくない、まだ試合がしたい――そんな気持ちがプレーに現れていた。
「俺らも気張らないと、呑まれそうだな」
「おーけい、あっくん。あたしはまだまだいけるよ!」
 思い切り明日美がブレイクショットを叩き込み、ラケットで肩を叩いた。
「勝負はここからだよ!!」

 結果として、惜敗してしまった幸一郎と羽沙だったが、清々しい敗退だったと互いを労った。
「やっぱり強いねー、あの二人は」
 水道で顔を洗う二人は、疲労で足が若干痙攣していた。また筋肉で足が太くなりそうだと羽沙は笑った。
「俺らも頑張らなきゃいけないな」
「あれ、白咲くんって自分のこと『俺』って言ってたっけ」
 羽沙からの指摘に、ハッと片手で口を押える。
「あ、いや人によるっていうか……」
 濁そうとする幸一郎に羽沙は言った。
「ふふっ、そっちの方が自然かも」
「……そう?」
「いやー、二人とも強かったねー」
 後から水道にやって来た明日美が二人の肩を抱いて称賛した。
「約束通り、あたしが白咲くんに何を言っても文句はなしよ……と言いたいところだけど、まあそれは無しだね! 先ほどあっくんに怒られました、すみませんでした」
「ううん。おかげで凄く大事なことに気がつけたから」
「大事なこと?」
 羽沙は幸一郎に微笑んでから言った。
「何でも楽しく出来なきゃだめだよねってこと。それからパートナーと心を通わせないと、ミックスダブルスでは勝てないってこと! 次は私たちが勝つからね!」
「臨むところだよ」
 案外羽沙は負けず嫌いなのかも知れない。そう思った幸一郎であった。